キャンドルミサ: マリア様のお清めの日

蝋燭をともして祝う私の大好きな聖燭祭、キャンドルミサが2月2日(木)に祝われました。

以下は、このミサについて、マザーTが使用していたミサのための典礼本の説明を要約した内容です。

この典礼は二部より成り立つ。行列とミサ、すなわち聖祭りである。

行列中の聖歌は喜ばしい御降誕と共に悔悛(犯した罪の悔い改め)の事をも想起するという意味があり、祝別された蝋燭を手にもって行列を行う、この灯された蝋燭はご復活の蝋燭と同様、御降誕の時この世に現れた誠の光明なるキリストの像である。 (1.P566) 

“Candlemas” at the Vatican Catholic News Service

この祝日は、灯したろうそくを使う習慣から「キャンドルミサ」と呼ばれます。伝統的に、クリスマスから40日後となり、二つのことを祝います。一つ目は、クリスマスに誕生したイエス様がモーゼの律法により神殿に奉献されたことです。イエス様はマリア様とヨセフ様の最初の子供であり、モーゼの律法によればすべての最初に生まれる男の子は神に捧げられます。

そして、二つ目はマリアのお清めの祝いです。ふたたびモーゼの律法になりますが、すべてのイスラエル人の婦人は出産した後の一定期間不浄とされ、神殿にはいることを禁じられます。その不浄の期間をすぎると、普通は羊を一頭、鳩を一羽神殿に奉納します。貧しいものは鳩を二羽奉納します。貧しかったマリア様とヨセフ様は、鳩二羽を奉納しました。(1. P565)

これは、どういう意味でしょうか。文字通りですと、イエスは羊と同じように祭壇の捧げものとされる、ということになります。しかし、もちろん人間の赤ちゃんをそのような捧げものにはしません。イエスを神殿に奉献し、かわりに鳩二羽を奉納し、鳩二羽とイエスを引き替えた、という意味となります。

教会の教義では、イエスとマリアは、すべての罪から解放されている存在のため、本来はこのような儀式は必要ありませんでした。マザーTの典礼本においては、「聖母が慣例に従い清めの式にあずかり、御子キリストも聖殿に捧げられたのは、聖母の謙虚さと御子の救世の事業にかかわるということを示されたのです」(要約)(1. P565)と述べられています。

キャンドルミサの蝋燭の祝別

カトリック教会には秘跡と準秘跡がありますが、秘跡について簡単に述べると「目にみえない神の恩恵のしるしを見えるかたちにしたもの」です。カトリック教徒は秘跡により、神の恩恵をさずかることができます。ろうそくの祝別はミサの最初に行われ、司祭に祈りをささげられ、準秘跡となります。ですから、祝別されたろうそくはわたしたちにとり、神の恩恵のしるしでもあり、恩恵が目にみえるかたちで授けてもらえる大事な日でもあります。

秘跡と準秘跡のちがいについて、ここでは詳しくふれませんが、準秘跡には、例えば、聖水、祝別された塩、メダイそれからロザリオなどがあります。準秘跡は、伝統的教会の教えにより定められています。ですから、お気に入りのコーヒカップや本は、準秘跡とはならない、ということです。

シメオンの歌「この(しもべ)を安らかに去らしてくださいます」

Nunc Dimittis (with ‘Salva nos’), the Canticle of Simeon – Gregorian Chant
Petrus Josephus

行列は、イエスが神殿に奉献された日、その場にいたシメオンの賛歌ではじまります。

このシメオンという人は、「メシアを見る前に死ぬことはない」と神からメッセージを受けました。神を信じ、老人になるまでメシアを待ち続けた人です。シメオンは、よくイエスを奉献したときの司祭と勘違いされますが、司祭でなくメシアを待ち続けて神殿を訪ねた老人です。シメオンはメシアに出会ったとき、ルカによる福音書の2章にある賛歌(カンティクル)を歌いました。

シメオンの賛歌は、聖務日課の一つ、コンプリンと呼ばれ、夜の祈りに歌われます。シメオンの祈りは「今こそ私を去らしてください」とも考えられていますが、彼がどちらの意味で神を讃えたのか聖書には書かれていません。私には、メシアが来た、そして神が約束を果たすということに、喜びの響きと少しの疑いも感じられない翻訳「この(しもべ)去らしてくださいます」がシメオンらしいのではと感じます。

取り除かれた「罪の悔い改め」の祈り

続いて二部のミサです。マザーTの1949年発行の典礼本には、罪の悔い改めの想起とありますが、実は現在のミサに、この美しい祈りの部分はすでにありません。これは1950年代、少しずつミサが短くなっていったからです。以下は、キャンドルミサの中の「罪の想起」であった「懺悔」の部分です。

主、願わくは起きて我らを助けた(たま)へ、主の御名(みな)の為に我らを救い(たま)へ。

天主よ、我らが(おの)が耳に聴けり、我らの先祖は我らに語れり。

願はくは聖父と聖子と聖霊とに光栄(さかえ)あらん事を、はじめにありし如く今も何時(いつ)も世々に至るまで、アメン。

主、願はくは起きて我らを助けた(たま)へ。主の御名(みな)のために我らを救い(たま)へ。 (1.P571)

キリスト教徒は、罪の悔い改めにより救われると信じています。得にカトリックには、告解、もしくは神との和解、とよばれる秘跡があります。これは司祭に罪を告白し、司祭が神の名において悔悛を赦すというものです。つまり告解後、人は罪から解放され、魂の救いに欠かせない恩恵をさずかることができるのです。罪の悔い改めの祈りが、なぜ懺悔のアンティフォン(交唱)が、なくされたのかは不明ですが、個人的には、この短いながらも大切な神への祈りが、いつか復活することを望んでいます。

信仰の炎を(とも)すろうそく

今年のキャンドルミサですが、平日にもかかわらず沢山の人が参加していました。私の教区の司祭はお説教のなかで、「かつて電気がなかった時代、どれだけ、ろうそくの灯が明るく感じたのか。想像してみましょう」と述べていました。かつて私は、神の光を知らず、自分が暗闇にいることにすら気が付いていませんでした。ろうそくの灯は、精神を照らすキリストの光でもあります。現代は24時間明るく照らされています。けれども、精神の暗闇はますます濃くなっているのではないでしょうか。ミサの最後に、「信仰の炎を灯しなさい」と司祭は言いました。一見些細なように見える光であっても、真っ暗な闇のなかでは大きな助けになります。心のなかに、「信仰」という名の炎をともしていけたら、と思います。

  1. 参考:チト・チーグレル譯, 彌撒(ミサ)典書(てんしょ),光明社,1949年発行