聖ジャンヌ・ダルク:火刑にされた乙女(4)

あなたは、わたしの守り手、助け手となり

わたしの体を滅びから、

中傷の罠から、

偽りを行う者の唇から救い出してくださった。

あなたは、わたしの反対者の目の前で

わたしの助け手となり、

あなたの豊かな慈しみと御名によって、

わたしを餌食にしようと仕掛けた罠から、

わたしの命をねらう者の手から、

わたしが耐えていた数多くの苦しみから、

救い出してくださった。

わたしを取り囲み、息を詰まらせるような炎から、

わたしがつけなかった火のただ中から、

(シラ書 51:2-4) 

ジャンヌ・ダルクの弾劾裁判記録は、中世社会が神秘と迷信に取り憑かれていたという一般的な印象を一掃します。

記録から浮かび上がってくるのは、ジャンヌに不利な証拠として使える場合を除いて、超自然的なことなどは無視していた聖職者の姿です。神の神秘を信じなかった彼らは、明らかに、死後の魂の行方など心配していなかったのです。

脅しに屈したジャンヌ

1431年5月24日、コーションは、音をあげないジャンヌに脅しをかけるため、彼女をサン・トゥアンの墓地(cemetery at St. Ouen)に連れて行くと火刑に処すと脅しました。さらに男の服装をやめ、「告白」に署名をすれば、教会の牢獄に移され、女性によって監視されると持ち掛けます。

ジャンヌは数か月にわたる牢獄での監禁生活、異端審問で疲労困憊していました。ついに火刑の恐怖は、弱った彼女を打ち負かしました。神に従うことを第一にしていたジャンヌが、神ではなく、人であるコーションの甘い言葉にだまされてしまいます。ジャンヌは、「告白」に署名をすることを同意してしまいます。文字を書くことができなかった彼女は、サインの代わりに小さな十字架のマークを印してしまいます。

コーションは彼女との約束など、守るつもりなどありませんでした。ジャンヌの破門は免除するとしながら、彼女の罪はあまりにもひどいため、元の牢獄に連れ戻し永久の禁固刑とすると言い渡したのです。

牢獄に送り込まれた乱暴者の看守たち

コーションが言い渡した無期限の禁固刑は、第13代ウォリック伯爵(Warwick)に怒りをいだかせました。彼女のせいで作戦に失敗した彼は、ジャンヌの処刑を願っていたからです。その様子をみていた判事の一人は、’ Do not fear, my lord,’ he said; ‘you will catch her yet.’「あなたはまだ彼女を捕まえられるでしょう」と心配に及ばないことを伝えています。(p235,)

彼らはジャンヌに対する残酷な計画を完璧にするため、裁判官達は、牢番に、貞節を脅かすような乱暴者な一団を監視役として送っていたのです。ジャンヌなら貞節を守る為、男装に戻ることを確信していたからです。

もし彼女がそうすれば、告発者たちは彼女を思い通りにすることができます。なぜなら、彼女が男装をやめると約束した後、再び男装をすることは、異端に逆戻りした事と同じだと主張できるからです。言うまでもないことですが、異端となった者は火あぶりの刑に処せられのです。

男装を強要されたジャンヌ

木曜日の夜に男装をやめたジャンヌは、日曜に、ふたたび男装にもどりました。ジャンヌが男装に戻るまでの数日間については、ほとんど知られていません。知られているのは、三位一体の日曜日の朝に目覚めたとき、彼女は兵士たちに、服を着る間、少しの間一人にしてほしいと頼んだこと、兵士の一人が、彼女から女性の服を剥ぎ取り、代わりに男性の服を与えたこと、裸になるのを避けるために、後者を着なければならなかったこと、などです。

牢番は、ジャンヌの懇願など聞き入れませんでした。裸にならないために服が必要だったジャンヌは、仕方なく正午に男物の服に着替えたのです。

声が告げた失望 

聖カタリナと聖マルガリタは、ジャンヌに彼らの失望を伝えました。ジャンヌは、そのメッセージについて「聖カタリナと聖マルガリタは、彼らは、私が自分の命を守るために自分の行いを放棄し、撤回したことで、私が大きな反逆に導かれ、そうすることで魂を失ったことに大きな悲しみを感じていることを私に告げました」と話しています。

ジャンヌの「魂を失う」ほどの大罪とは、神からの恩恵を否定した神への裏切りです。聖書のなかで、神を裏切った人物として、最も有名なのはイスカリオテのユダでしょう。主はイスカリオテのユダを指して、「あの人は生まれなかったほうがよかった」(マタイ26:24)と言われました。イエスは、ユダが悔い改めない限り、神を裏切った罪が、彼を永遠に、地獄の最も深い淵に落とすことを知っておられたからです。

神に従う勇気

Joan of Arc Imprisoned in Rouen, ca. 1819 by Pierre Henri Revoil (French, Lyon 1776–1842)

「人に信頼するよりも、主に帰依するほうがよい」(詩篇118:8)

ジャンヌが男装している、という情報を得たコーションは、獄中の彼女を訪ねました。

神に従う勇気を取り戻したジャンヌは、魂の死よりも肉体の死を自ら選びます。コーションの質問にジャンヌは、男性の傍らで男性の仕事(戦いの指揮)をするなら、男性の格好をしていたほうが都合がいいと説明しました。さらに、女性の恰好をすれば、ミサに出ることが許され、自分を縛る鎖から解放され、女性に監視されると約束されたが実際には、それらの約束はすべて嘘だったと付け加えました。

コーションがジャンヌの声について尋ねると、彼女は、聖人たちが、彼女が大罪を犯したことを悲しんでいると述べました。彼女は火刑を恐れて「告白」に署名したことを認め、それは大きな間違いであったこと、自分の声を否定するつもりはなかったこと、自分は神の使いであると今でも信じていることと述べました。最後に彼女は、これ以上囚人でいるくらいなら死を選ぶと答えたのです。

火刑に処すため世俗の手に渡される

ジャンヌは、再び異端として有罪となりました。裁判官の見解では、異端から脱却していたため、裁判官たちは、彼女を世俗の手に引き渡すことが適切であると判断しました。中世の教会では、教会が異端者に死刑を宣告したり、処刑したり、あるいは処刑を手助けしたりすることを禁じていたからです。1215年のエキュメニカル公会議(第4ラテラノ公会議)は、このことを次のように明言しています。

「聖職者は、流血を伴う判決を下したり、宣告したり、流血を伴う刑罰を執行したり、そのような刑罰が執行される場に立ち会ったりしてはならない」

したがって、異端裁判では、教会の目的は、単に神学的な専門知識を用いて、その人が無神論の異端者であるかそうでないかを判断することであったのです。異端であると判断された場合は、政府が法律に従って適切な処罰を下すことになります。当時、回心をせず、異端であり続けることは、恐ろしい犯罪であると一般に認められていました。その法的処罰は、多くの管轄区域において、火刑による死刑だったのです。

ジャンヌの異端裁判について、教皇ベネディクト16世は「実際に裁判全体を進めたのは、判事として裁判に参加した、有名なパリ大学の神学者の大集団」(2011年1月26日、第256回 聖ジャンヌ・ダルク一般謁見演説)であったと述べています。

ジャンヌの裁判官たちが、彼女は世俗の法制度に引き渡されるにふさわしい、再犯した無宗教の異端者であるという判決を下したとき、誰も異議を唱えませんでした。恐怖のために沈黙した者もいたに違いありませんが、当時の神学者や聖職者のほとんどは、コーションを全面的に支持していたようです。

火刑の朝

1430年5月30日(水)の早朝、二人の司祭がジャンヌのもとに送られ、火刑に処されるという知らせを告げました。知らせを受けたジャンヌは、泣きじゃくり、火刑より7回首をはねられたほうがましだと、自分の運命を嘆きました。

コーションが地下牢に入ってくると「あなたの決断で、世俗に引き渡されなければ火刑に処されなかったのです。あなたは私の死の責任を負うのです」と言いました。それに対しコーションは「あなたが約束を破ったので、あなたは死ぬことになったのです」と答えています。ジャンヌはコーションに、彼の責任を神のみ前で訴えると宣言しました。

火刑台へ

Being Led to her Death, ca 1867 by Isidore Patrois

「私は十字架を授からないのですか」と乙女は尋ねた。深く憐みを感じたイギリス兵が、2枚の木片を手に取り、麻ひもで粗末な十字架を作った。(火刑の日のジャンヌのエピソード)

白い長い衣をまとい、頭に帽子をかぶされたジャンヌは荷車に乗せられ、処刑される広場へと運ばれました。通りは大勢の人々で埋め尽くされ、ジャンヌの祈りの声は、人々の涙を誘いました。

広場の中央には杭が高く立てられ、どこからでも彼女が焼かれるのが見えるようにされていました。高い杭は、ジャンヌが火で焼かれる前に、煙で窒息死するのを防ぐためでもありました。ニコラ・ミディという説教者は、ジャンヌが異端に戻ったため、教会は彼女を破門し、教会から切り離し、世俗の手に委ねると宣言しました。

すべてを赦し、火刑台に上がったジャンヌ

「あなたがたが他人の罪をゆるすなら、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださる」(マタイ6:14-15)

荷車が広場に着くと、ある修道士が、十字架を懇願していたジャンヌのために、サン・ソヴール教会から十字架を持ってきました。ジャンヌは敬虔な気持ちで十字架に接吻し、泣きながら火葬場に向かいました。

火刑台にあがったジャンヌは、群衆に向かい、王には何の罪もないことを伝えると、すべての人に彼女の魂のために祈ってくれるように願いました。彼女は全ての人を赦しました。そして、自分の声を決して疑わなかったこと、もし彼女が何か危害を与えていたのなら許してくれるよう頼みました。

ジャンヌの謙虚で痛恨に満ちた口調は、彼女を殺すため、全力を尽くしてきた多くの敵を含め、人々の涙を誘いました。コーションでさえ目に涙を浮かべたと言われています。

白い鳩と死

ジャンヌの帽子がとられ、代わりに彼女の剃られた頭に、裁判官の帽子のような形をした紙の帽子をかぶせられました。帽子には、「異端者、罪人、背教者、偶像崇拝者」など、彼女の罪状が書かれていました。

ジャンヌは杭にとりつけられた鎖でしばられました。火刑台の四隅にはなたれた火を見て、彼女はつきそっていたイザムベルド司祭(Isambard de la Pierre)にはなれるように言いました。イザムベルド司祭に「私が死ぬまで、いつも私の目の前に十字架を掲げてください」と願いました。


四方八方から立ち上る煙と炎に、彼女の姿はすぐに見えなくなりました。炎が最初に彼女に触れたとき、彼女の悲痛な叫び声は、人々を恐怖に陥れ、群衆は静まり返りました。神と聖人を呼ぶジャンヌの声が、炎の音に混じって聞こえてきます。


「イエス様!」 ジャンヌは大声で叫ぶと、頭がガクリと胸に落ちました。その瞬間、多くの人々が、白い鳩が飛び去るのを目撃したのです。人々はその白い鳩は、ジャンヌが、19年という短い生涯を終えて天に召されたしるしだと考えたのです。

ジャンヌは最後まで忍耐し、誰にも恨みを抱くことなく、罪を悔い改めた女性として亡くなりました。たとえ罪を犯したとしても、マタイによる福音書6章14節にあるように、神によって赦されたに違いありません。

冒涜と灰の中の心臓

処刑が終わると、処刑人は火刑台の薪を移動させ、衣服を焼かれたジャンヌの黒焦げの遺体を公衆の面前に晒しました。当時、捕縛されたのは、本物のジャンヌでないという噂があり、その噂が嘘であることを証明するためだったと言われています。

遺体は聖遺物として回収されないよう、さらに焼かれて灰にされました。その灰を集めているとき、処刑人は、彼女の心臓が燃え残っていることを発見したと伝えられています。後日、処刑人は、処刑人はドミニコ会の修道院を訪れ、ラドヴニュ司祭に、聖女を焼いた自分を天が許さないことを恐れている、と告白しています。

ジャンヌの灰は、キリスト教の埋葬もされず、ウィンチェスター枢機卿の命令により、セーヌ河(Seine)に流されました。この話は、ジャンヌと最後まで一緒にいた、修道士マシューによって記録されています。

ジャンヌを不正に弾劾した敵のその後

ジャンヌ殉教後、彼女の残酷な処刑に関わった人々はどうなったのでしょうか。

ニコラ・ミディ:ジャンヌが処刑される前、彼は、他の人々が罪に陥るのを防ぐために、腐った体であるジャンヌを、教会の体から取り除く必要があると説いた人でした。彼は、ジャンヌが処刑された後、ハンセン病にかかり死んでいます。

聖書では、ハンセン病は(場合によっては)ひどい罪から生じた「神からの呪い」とみなされていました。当然のことながら、ミディの死は、聖女を殺した報いだと、多くの人に噂されました。

ジョン・デスティヴェ: 他人の悪口を言う以外、口を開くことはないと言われた評判の悪い人物。ジャンヌの異端裁判の検事。獄中のジャンヌを訪ね、売春婦、ゴミなどと罵り続けていました。ジャンヌの死後間もなく、ぬかるんだ溝のなかで頭を打ち付け、死んでいるのが発見されました。

ニコラ・ロワズール:神学の教師で、コーションの親友。ジャンヌの拷問を最も強く望んだ一人でもありました。親切を装い、ジャンヌを陥れ、秘密を打ち明けさせようとしました。その上、ジャンヌに教会に従うよう促し、告白文書に十字架の印を署名させています。

ローマとアヴィニョンに二人の教皇がいた時代、彼はフランスの教皇を支持し、ローマと対立しました。そのため、ルーアン教会という収入源を奪われることとなります。その後、姉妹のもとに身を寄せていましたが、1442年以降に、ジャンヌの復権裁判以前に、バーゼルで急死しています。

宿敵ピエール・コーション

ピエール・コーション:異端裁判で最も重要な役割を果たし、ジャンヌの殉教後も約10年間生き続けました。ルーアンの大司教座を望んでいましたが、ジャンヌの処刑後も手に入れることはできず、代わりにリジューの司教となっています。

1431年、彼は、イギリスのヘンリー6世をフランス王として即位させましたが、イギリス勢力を巻き返すきっかけとはなりませんでした。

1436年4月13日、パリはフランス軍に占領されました。「七年以内にイギリスがオルレアンで得た以上のものを失う」という預言が現実となります。

1441年までに、イギリスは、それまでの100年間で、獲得した征服地のほとんどすべてを失っていました。

イギリス衰退に関するジャンヌの預言が成就したことについて、コーションは何を感じたのだでしょうか。イギリスから報酬を受けることを期待していたコーションにとり、大きな不幸であったことは間違いありません。

1442年12月18日(火)(ジュリアンカレンダー)、(グレゴリアン・カレンダーの12月27日(火))髭をそられている最中に71歳で急死しています。コーションの遺体は、サン=ピエール・ド・リジュー聖堂に埋葬されています。

コーションが亡くなった日の特別な夕の祈り

教会の公式の日々の祈りは、聖務日課(Divinum Officium)として知られ、時の典礼(Liturgia Horarum)、時課の典礼(Liturgia Horarum)などと呼ばれることもあります。聖務には、1日のさまざまな時間に唱える、さまざまな祈りが含まれています。

聖務日課には、毎日同じ内容のものもあれば、曜日や季節によって異なるものもあります。例えば、夕べの祈りである晩課では、毎日、マニフィカト(ルカによる福音書1章46~55節)が祈られます。しかし、マニフィカトの前後には、アンティフォンと呼ばれる、特別な短い文、またフレーズが唱えられます。マニフィカトのアンティフォン、(または夕のアンティフォン)は、聖人の日や季節によって異なります。

クリスマスまでの一週間の聖務日課では、夕のアンティフォンを、それぞれラテン語の “O”(誰かに呼びかけるときに使われる間投詞)で始まるよう特別に定めています。O “のアンティフォンは、旧約聖書のイメージを用いて、世の光であるキリストが、絶望の闇にとらわれた魂を救ってくださるよう懇願するものです。それぞれの “O “アンティフォンは、定められた日にのみ唱えられ、それ以外の期間には用いられません。

今日、”O “で始まるアンティフォンは、すべての場所で、同じ時期に行いますが、中世には多少の違いがありました。コーションが亡くなった1442年12月18日、フランスの夕の祈りで使われた、 “O “で始まるアンティフォンは次のようなものです。

O Clavis David 

Latin: 
OClavis David, et sceptrum domus Israel; 
qui aperis, et nemo claudit; 
claudis, et nemo aperit: 
veni, eteduc vinctum de domo carceris, 
sedentem in tenebris et umbra mortis. 
ダビデの鍵、イスラエル家の王笏よ
あなたが開けば、誰も閉ざさず。
あなたが閉じれば、誰も開けず。
いらしてください。囚人を獄屋から導きだしてください。
暗闇と死の陰に住む者たちを
O Clavis David (December 20) Stephan George

この祈りは一年に一度、この日のためだけに用いられます。そしてその祈りは、ジャンヌを不正に弾劾した、死に逝くコーションに、まさに必要な祈りだったのです。

悔い改めを説くイエス

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」 (マルコ1:15)

マルコによる福音書1章15節で、イエスは悔い改めを説いています。マルコだけではなく、悔い改めは聖書全体を通して強調されています。コーションやジャンヌの敵は、彼女の死後、彼らの罪に対し、痛恨を感じ、悔い改めたことがあるのでしょうか。答えは神のみぞ知るのですが、死は突然彼らを襲い、十分な準備もなく死んでいったように思われます。

たとえば、コーションが亡くなった時間はわかりませんが、ひげを剃っている最中ということでしたので、少し暇になる、昼の祈りが終わった後から、夕方の祈りまでの時間帯に髭を剃りに行ったのかもしれない、と考えられます。さらに亡くなった時、教会内でないとすると、他の司祭も近くにいなかったはずです。言い換えれば、特別なアンティフォンのある、その日の夕の祈りはおろか、最後の秘跡を受けることもできなかったはずです。

死に逝く前の最後の告解と、聖体拝領無く死ぬことの恐ろしさは、彼のような聖職者が最も強調することの一つです。ジャンヌを異端とし、不正に告発し、火刑に処すことに、協力した人々の心境はいかばかりであったでしょう。

復権裁判

彼女の死を知らされた父は、ジャンヌの死の二年後、悲しみのなかでなくなりました。残された家族は、異端者として処刑されたジャンヌの汚名を何とか晴らしたいと願っていました。

一方フランスは、イングランドとの戦いに、勝利し続けていました。百年戦争の流れはフランスに傾いたのです。国王シャルル7世は、自分の王位確保に貢献し、今や伝説となった「オルレアンの乙女」が、公式記録によれば、異端者として断罪され、魔女の疑いをかけられていたことは、(控えめに言っても)居心地が悪かったに違いありません。シャルルは、自分のフランス王位継承権が異端や魔術とは無縁であり、むしろ奇跡を起こす聖人によって、神から認められたものであることを世に証明したかったと言えます。

1459年、ジャンヌの裁判の記録が保管されていたルーアンの町は、フランス軍によって再び占領されました。これで異端裁判以来、初めて、ジャンヌに対する裁判を、再検証することが可能になりました。

1450年2月15日、シャルル7世は、ジャンヌの汚名を晴らし、異端と魔術の汚名を返上するために「ジャンヌに関する真実を明らかにする」ことが王の意図であると宣言しました。

同時に、ジャンヌの母と兄弟たちは、異端審問の判決を訂正するよう教皇ニコライ5世に請願しました。けれども異端裁判は、1455年に、教皇カリクストゥス3世が即位するまで、再審理されることはありませんでした。

復権裁判での証言

カリクストゥス3世の即位とともに、ジャンヌの復権裁判のための調査が始まりました。

復権裁判では、ジャンヌの幼なじみ、兵士、司祭など多くの証人が呼ばれました。彼らは、ジャンヌの素朴な人柄、善良なカトリック信者であること、戦闘に関する驚くべき知識を証言しています。彼らはまた、ジャンヌが神の名において、イギリスからこの地を救ったと信じていました。

次の証人は、国王評議会のメンバーであるボーケールの元老院長で騎士のジョン・ダウロンです。彼は、ジャンヌが魔女とされたのは、イギリス側に都合の良い、政治的な理由によるものであることを明らかにしました。また、イギリス王に仕えていたノヨンの司教ジョン・ド・メイリーは、コーションが、イギリスから金銭を受け取っていたことを暴露しています。

裁判官の書記官であったウィリアム・マンションは、一般的な見解としてこう記録しています。 彼女が最後の試練に耐えた姿ほど、善良なクリスチャンの証はなかった、と。

ゲドン、アロン、カヴァル、マルセル、フェブリは、「彼女はカトリック教徒として死んだ 」と、幾人もの人々が、彼女の火刑の理由であった、異端を否定する証言をしたことが記録に残されています。

レイプ疑惑

ジャンヌの死後約25年後に始まった復権裁判では、ドミニコ会の修道士イザンバール・ド・ラ・ピエールが、男装に戻った日の、ジャンヌの様子を証言しました。彼は、コーションが、ジャンヌの地下牢に行ったとき、彼女は泣き、傷つき、憤慨しており、激しい闘争を受けた形跡があったことを証言しています。

さらに、ジャンヌの最後の告白を聞いた司祭マルタン・ラドヴニュの証言によれば、兵士だけでなく、あるイギリス貴族も彼女に対して恥ずべき行為を行ったということです。

イエスが説かれた性的罪の恐ろしさ

もし、あなたの右目が罪を犯す原因となるなら、それを取って捨てなさい。全身を地獄に投げ込まれるよりは、からだの一部分を失う方がましである。 もし、あなたの右手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。からだ全体が地獄に落ちるよりは、からだの一部分を失う方がよい。(マタイ5:29-48)

聖書では性的な罪を犯そうとする衝動があるならば、全身が地獄に投げ込まれるより、罪を犯そうとした体の一部を棄てたほうが良いとあります。

ジャンヌに対する恥ずべき行為は、三位一体の祝日に行われました。教会の暦では、当時も今も、三位一体の祝日はクリスマスと同じランクの主要な祝日です。そんな神聖な日に、彼らは神を冒涜するような行為をしたのです。彼らが死後の魂の行方など心配しない、信仰のない人間であったことは明らかです。

殉教者ではなく乙女として列聖

1456年6月、ジャンヌに対する「異端」の判決は最終的に無効とされました。彼女は敬虔なカトリック信者でしたが、不当な裁判のために処刑されたことが認められたのです。

殉教者とは、キリスト教の信仰のために命を落とした者を指します。ジャンヌの場合、彼女が処刑されたのは、キリスト教徒ということではなく、彼女の告発者が堕落しており、政治的な理由で殺そうと決心していたからです。そのためジャンヌは、殉教者としてではなく乙女として列聖されています。

聖ジャンヌの執り成しとして認められた四件の奇跡

殉教の場合、奇跡の証明を必要としませんが、乙女とされるジャンヌは、列聖されるために4つの奇跡を必要としました。

1904年1月6日、教皇ピオ10世は3つの奇跡を承認しました。それぞれの奇跡は、修道女がジジャンヌの執り成しを祈り、重い病気が癒されたというものです。四つ目の奇跡は、ジャンヌが生前、フランスをイギリス軍から救ったというものでした。1920年までに、さらに2つの奇跡が証言され、承認されました。

ジャンヌの死後、500年近く経った1920年5月16日、ベネディクト15世によって、彼女は聖ジャンヌ、オルレアンの乙女として列聖されました。それ以来、彼女は信者のために奇跡を起こし続けています。

ベネディクト16世のメッセージ

ジャンヌが、火刑に処せられてから約600年。彼女が生きた時代は、現代世界とは何の共通点もない過去の話のように思えますが、実はそうではありません。

ベネディクト16世はかつて、シエナの聖カタリナと聖ジャンヌを比較し、それぞれが二人の教皇の対立の時代に生き、教会と世界という非常に劇的な現実の中に生きながら、敬虔な神秘主義者であったと語りました(第256回一般謁見:聖ジャンヌについて演説、2011年1月26日)。

当時、誰も予想していなかったのは、2年後の2013年、ベネディクト16世がバチカンに住み続け、教皇の法衣を着続けながら退任するということでした。つまり、フランシスコ法王が選出されてから、ベネディクト16世が亡くなるまで、2人の法王がいるかのように見えたのです。しかも、今日の教会と世界は、ジャンヌの時代と同じように深刻な問題を抱えています。

ベネディクト16世は、聖ジャンヌのイエスへの愛と信頼、祈りにおける主との絶え間ない対話、そして教会への最後まで変わらぬ愛にふれ、より高い水準のキリスト教的生活を目指すよう信徒を励ましていました。聖ジャンヌのように、私たちもイエスの愛のうちに教会を深く愛するべきだと述べています。

聖ジャンヌに関する教皇のメッセージは、現代において、最も必要なことを教えてくれています。聖ジャンヌの愛と信仰は、過去も今も、フランスのみならず教会を守ってくれているに違いありません。故ベネディクト16世も、きっと聖ジャンヌや他の多くの聖人と同じように、教会と世界のために、天の御国から働いておられると信じています。

ベネディクト16世のメッセージを心に刻み、聖ジャンヌのような、神への愛と献身を少しでも持てるよう神に祈りたいと思います。

Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.

Gower, Ronald Sutherland, Lord. Joan of Arc. London: J.C. 1893.

Image: Scene From The Life Of Joan Of Arc , ca 1913 by Lionel Noel Royer

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