LGBTイデオロギーとカトリック信仰

最近のアメリカでは、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)のイデオロギーが強く支持され、賛美されています。それだけでなく、LGBT運動やウォーク・アジェンダ寛容派に、反する視点を持つことはタブーとされています。この運動の名称には長年にわたっていくつかの追加がなされ、現在では頭文字をとってLGBTQIAと呼ばれていますが、ここでは略してLGBTと表記します。

基本的に、この問題には2つの側面があります。寛容派は、LGBTを抑圧されたマイノリティとして感情的に同調し、個人や社会全体が神の愛を実践し、受け入れる方向に向かうべきだと主張します。それに対してもう一方は、人々を受け入れるか否かという観点ではなく、真理と偽りという観点でこの問題を捉えています。こちら側の主張は、魂の破壊につながるものは避けなければならないとします。トマス・アクィナスによって「相手の善を望むもの」と定義された愛の実践とし、どのような行動が破壊につながり、どのような行動が救いにつながるのかについて、人々が真実を理解するのを助けようと考えるからです。

LGBTプライド・マンスの始まりとは?

LGBTコミュニティを祝福する「プライド・マンス」の起源は、現在では 「ストーン・ウォールの暴動」あるいは 「ストーン・ウォールの反乱 」として知られている、ニューヨークでの一連の抗議活動です。この事件(あるいは一連の事件)に関する以下の記述は、ウィキから要約したものです。ゲイ・コミュニティの報告に基づいており、警察の証言は含まれていませんが、概ね正確であると考えられていました。

「ストーン・ウォール・イン」は、ジェノベーゼ犯罪一家と関係があり、露出度の多いゴーゴーダンサーがいたこともあり、たびたび警察の手入れをうけていました。警察の手入れは、犯罪を未然に防ぐ目的でしたが、そこに集うLGBTの人々に対する不当な扱いもありました。

1969年6月28日、ストーン・ウォール・インの夜は、いつもの夜ではありませんでした。その6日前、同性愛の権利に賛成していた女優ジュディ・ガーランドが亡くなり、常連客たちは感傷的な夜を過ごしていたからです。警察の手入れが始まったとき、彼らはジュディを偲んでストーンウォール・インに集まっていました。警察による度重なる手入れ、そして女優ジュディ・ガーランドの死が重なり、我慢の限界に達した彼らは警察官を攻撃し始めました。事態はたちまち暴動へと、エスカレートしてしまいます。その後の数日間さらなるエスカレートは、最終的には2,000人を超えるLGBTと、400人以上の警察官を巻き込んだ暴動へと発展したのでした。

1970年6月28日、暴動1周年を記念するパレードが開催されました。それ以来、6月はLGBTにとって記念すべき月となり、プライド・マンスが誕生したのです。

LGBTイデオロギーを支持した歴代アメリカ大統領

1999年6月、ビル・クリントン大統領はストーン・ウォール暴動にちなみ、6月をゲイ&レズビアン・プライド・マンスに指定しました。

2011年6月、バラク・オバマ大統領は、プライド・マンスが祝うカテゴリーに「バイセクシュアル」と「トランスジェンダー」を追加しました。

2012年、カトリック信徒であると公言しているジョー・バイデン副大統領(当時)は、カトリック・カテキズムを完全に無視した、同性婚を公に支持し始めました。それ以前、バイデンは上院議員として、一貫して同性婚に反対票を投じてきていたのです。けれどもLGBTのイデオロギー支持は、ビル・クリントンの時代から、民主党基本政策の主要な要素のひとつでした。つまり、民主党のバイデンが同性婚を支持したのは、政治的な理由によるものだと思われます。

イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と言われました。バイデンは同性婚だけでなく、中絶の「権利」やトランスジェンダーの「ケア」(未成年者も含む性転換手術)も支持し、神よりも自分のキャリアを優先している、名目上のカトリックであることは明らかです。

道徳的問題への疑問

今年ワシントンD.C.で開催されたプライド・イベントは、6月10日にホワイトハウスで開催されたものも含め、多くの人々が参加しました。

米国では、自由にイベントを開催し、祝うことができます。(言うまでもなく、違法な、公的に許可されていないイベントを行うことはできません)つまり、LGBTがプライド・マンスを祝うことは、その行事に賛同する人々によって適切な方法で行われる限り、何の問題ないということになります。

しかし最近のプライド・パレードでは、通常ならわいせつ行為とみなされるような、過激なコスチュームを着た参加者もいました。子供に見せたくないようなパレードが、白昼堂々と行われたのです。

事件の背景にある問題

ChurchLaw & Taxというウェブサイトによると、合衆国憲法修正第1条は、信仰の自由と行動の自由という2つの概念を包含しており、信仰とは異なり、行いはコミュニティを守るために規制されることを述べています。

プライド・イベントの背後にある真の問題は、どのような活動、どのようなライフスタイルであったとしても、無宗派の(公式には無神論者でも世俗主義者でもない)米国政府が、大きな「誇り」をもって祝うべきである、としていることだといえます。

さらに政府主催のイベントにおいて、プライド・イベントでなければ容認できないような行動を容認する傾向がありました。プライド・パレードに参加している限り、何をやっても許されるという印象を受けます。パレードがあろうがなかろうが、最低限の公序良俗を守るよう要求するのは、理不尽な扱いなのでしょうか。上で述べたような行き過ぎた行為に対し、非差別的、合法的方法で対応することは不可能ではないはずだからです。

聖書は子供に有害?

LGBTイデオロギーの問題は、教会だけでなく、(最近では)学校にも影響を及ぼしています。LGBTイデオロギーを支持する本が、学校の図書館に置かれるようになり、その中には性的な内容が含まれた本もあります。

コロラド・パブリック・ラジオ(CPR)ニュースの6月29日付の記事によると、保守的な親たちは、LGBTQの本や性的な内容の本が、学校図書館に置かれることに抗議しているとのこです。これに反発をしたある保護者は、聖書には露骨で不適切な性的、暴力的内容が含まれている(と思われる)ため、学校図書館から聖書を取り除くべきだと要求しています。(以下CPR記事より)

「アメリカ図書館協会は、2022年に1,200件以上の異議申し立てを記録しており、20年以上前に図書館での検閲に関するデータを取り始めて以来、最も多い数となっている」

現在、アメリカの多くの州で、同様の問題が起きています。

ファティマの聖女ジャシンタは、永遠である教会の教えをないがしろにし、流行に従うことは危険だと警告しました。真理である聖書の教えと、移り変わる世俗的イデオロギーを教える書物を、あたかも同等であるかのように比較するのは大きな矛盾です。いずれにせよ、文化戦争が激化していることは間違いないといえます。

貞節と同性愛に関するカトリック・カテキズム

同性愛に関するカトリックの懸念は、新しいものではありません。近年、教会は常に教えてきたことを繰り返してきただけです。例えば1986年10月、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、ローマの司教団に宛てた書簡の中で、同性愛について次のように指摘しています。(Letter to the Bishops of the Catholic Church on the Pastoral Care of Homosexual Persons (vatican.va))

「今日、教会内でさえも、同性愛の状態をあたかも無秩序であるかのように受け入れ、同性愛活動を容認するよう、教会に大きな圧力をかける人々が増えている」

では、同性愛に関するカトリックの教義とは、一体どのようなものなのでしょうか。カトリック教会のカテキズムには次のように書かれています。(2357-2358項)

2357 同性愛とは、同性に対して排他的または優位的な性的魅力を感じる男性同士または女性同士の関係を指す。同性愛は、何世紀にもわたり、さまざまな文化の中で、実に多様な形をとってきた。その心理的な原因は、ほとんど解明されていない。同性愛行為を重大な堕落の行為とする聖書に基づき、伝統は常に「同性愛行為は本質的に無秩序である」*と宣言してきた。その行為は自然法に反している。彼らは性行為を生命の賜物に対して閉ざしている。真の情愛と性的均衡のとれた状態から生じるものではない。どのような状況においても、それらは承認され得ない。

2358 根深い同性愛の傾向を持つ男女の数は、無視できない数である。客観的には無秩序であるこの傾向は、彼らの多くにとって試練である。彼らは尊敬、思いやり、感受性(優しさ)をもって受け入れられなければならない。彼らに対する不当な差別の兆候はすべて避けなければならない。このような人々は、自分の人生において神のみこころを全うし、もし彼らがキリスト者であるならば、そのような状態から遭遇するかもしれない困難を、主の十字架の犠牲と一つにするよう召されているのである。

* 創世記 19:1-29、ローマ 1:24-27、1コリント6:10、1テモ 1:10.

** CDF, Persona humana 8.

自由と尊厳を守るために

同性愛の実践は、欲望(七つの大罪の一つ)の罪を犯す一つの方法に過ぎません。カテキズムは、他の多くの形態の欲望も扱っており、そのいくつかは、要約の部分で、次のように言及されています。(パラグラフ2396)

2396 貞操に著しく反する罪の中には、自慰、姦淫、ポルノグラフィー、同性愛の実践がある。

㊟カテキズムに関する日本語翻訳は、私が翻訳したものであり教会公式翻訳ではありません。教会公式日本語翻訳が私の手元にないため、英語版のカトリック・カテキズムから翻訳しています。

ラッツィンガー枢機卿は、同性愛の問題は複雑であり、神学的にバランスの取れた助言が必要であると説明しています。彼はさらに、性的能力の使用は夫婦間においてのみ良いものであることを明らかにしています。さらに、救いを妨げる誤った考えを教会が拒絶することは、個人の尊厳や自由を制限することではなく、むしろ自由と尊厳を守ることだと強調しています。(LGBTに対する真の司牧的アプローチは、罪を認め、セクシュアリティに関する真理を宣言しなければならない)

教会は、罪は罪であると教えることに非があるのか?

Jesus Preaching (1652) Rembrandt

「カトリック教会はLGBTを拒絶している 」と言い、さらに 「神は愛であり、私たちが互いに愛し合うことを望んでおられるのだから、私はすべての人を愛し、受け入れるよう努めている」と言う人がいます。そのような意見を持つ人は、LGBTを受け入れないのは、神の教えを実践しない嫌悪者である と指摘します。

そのような人々に、私はこのように答えます。「罪を罪と呼ぶことは、憎むことと同じではない。神はすべての罪人(言い換えればすべての人)を愛し、私たちにもそうするように命じておられる」と。

それだけではなく神は、罪を憎み、罪から救うことを望んでおられます。混乱を避けるために、神はどのようなことが罪であるかを、聖書、そして教会を通し、明確に教えておられます。聖書には「人には正しいと思われる道があるが、その終わりは死に至る道である」(箴言14:12)とあります。神がこのようなことをしたのは、(神が意地悪なのではなく)、罪が不幸につながるからであり、神は私たちが幸せになることを望んでおられるからです。

教会が 「人々を拒絶している 」とされる理由については、次のように説明されます。カトリック教会はすべての信徒に、カトリックのカテキズムと道徳に忠実であることを求めます。言い換えれば、教会の教えを信じ、それを実践する意志のある人は誰でも教会に入ることができます。たとえ信徒が正しく信じ、実践していなくても、悔い改めて赦され、生活を改めれば、立派なカトリック信徒であり続けることができます。教会は罪を拒絶するのであって、人を拒絶するのではありません。

教会の教えを信じないなら、教会に入らなければよいだけです。けれども、教会の教えを信じる人々を「憎しみを抱く者」と定義し、非難するのは、正直でも公正でもありません。

LGBTQIA+プライド・ミサに反対するアンナ=ケイト・ハウエル

文化戦争の一環であるLGBTイデオロギーは、すでにカトリック教会にも浸透しています。例えば、6月14日には、ジョー・バイデン大統領の教会でもある、イエズス会運営のホーリィ・トリニティ教会で第3回LGBTQIA+プライド・ミサが行われました。このミサの反対派は、カトリック教義に反していないか明らかでない点について指摘しています。(Catholic With Same-Sex Attraction Calls on Cdl. Gregory to Cancel DC ‘Pride Mass’ – LifeSite

ミサに反対したSSA(同性に魅力を感じる)で、回心したアンナ=ケイト・ハウエルは、31歳の神学修士を目指している学生です。彼女は過去に、性的に乱れた罪深い生活を送り、26歳の時には同性婚もしたと告白しています。以下は、アンナがホーリィ・トリニティ教会の教区長である、ワシントンD.C.のグレゴリー枢機卿に送った手紙の要点となります。

アンナの手紙

LGBTQは私たちのアイデンティティではない。私たちは同性に惹かれることを経験しているのであり、罪の名前(プライド)で呼ばれることを好まない。それは高慢の罪である。

カトリック教会の教えを明確にすることは、これまで以上に重要である。教会内に曖昧さを悪用し、武器として利用する人々がいることが懸念されるからだ。

私たちは罪への衝動(同性へ魅力を感じる)を祝っておらず、教会外の人を誤解させたくない。

「だがプライドに参加したからといって、私たちが行進するすべての人、すべての山車、すべてのメッセージに同意することにはならない」と言われるかもしれない。しかし、プランド・ペアレントフッドに、多額の寄付をするカトリック教徒についても同じことが言える。どちらの主張も馬鹿げている。プランド・ペアレントフッドが主に中絶手術を行うために存在するのと同様に、「プライド・マンス」が主に性的な罪を祝うためのものであることは誰もが知っている。カトリック信者が、どちらかを支持することは恥ずべきことである。

グレゴリウス枢機卿、私はカトリック信徒として、あなたが、私が出会うすべての人の最善を想定することが私の希望である。その慈愛の精神に基づき、私はあなたが混乱を招き、信徒と信徒ではない人々を同様に(教会に対し)恥ずべきことに陥れ、同性に惹かれる人に対する教会の証しを、害することを望む人物ではないと信じることにしている。

私のような者に、尊敬と優しさをもって寄り添うというのが、あなたの願いであると信じている。あなたは、私たちが全能の神によって尊厳を与えられた人間であることを、決して忘れたくないと信じる。私たちが苦しむかもしれない、いかなる乱れた気質をも、超越する尊厳を持った存在であることを決して忘れないというのが、あなたの願いであると信じている。これらのことがあなたに真実であると信じ、私はキリストにある姉妹として、どうかプライド・ミサを止めてくださいと心から願っているのである。……この行事が行われることは、何の益もなく、大きな害をもたらすだろう。

最後に、アンナは神の祝福を祈る言葉で手紙を締めくくっています。

十字架を背負い私に従いなさい

イエスは弟子たちに「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)と説きました。これは簡単なことではありません。アンナが経験した苦しみは、並大抵のものではなかったに違いありません。私はアンナの手紙に、自分の十字架を背負う覚悟した人にある特別な強さと説得力を見出します。

D.C.のグレゴリー枢機卿はミサの中止を命じたませんでした。しかし私は、彼女の手紙が私や他の多くのカトリック信者に、信仰を守り続ける勇気を与えてくれたと確信しています。

枢機卿が教区の司祭や信者の良き模範となり、何が正しいのかを明確に示し、魂の死にいたることがないよう導いてくださることを祈ります。

Image: An ancient painting of a greek tomb inside the archaeological museum of paestum in italy

ゆるしの秘跡の守秘義務は守られるべきか

最近のニュースで、「ゆるしの秘跡」で明かされる情報の守秘義務について、論争があります。このような守秘義務は、告解の封印(カトリック用語)、聖職者懺悔の特権(法) として知られています。この論争は、告解室で聞いた告白が、性的虐待に関する場合、司祭に警察への報告を、法的に義務付けることが望ましいかどうかというものです。以下はニュースの概要です。

ワシントン州とバーモント州では、カトリックの司祭の守秘義務を認める民法を撤廃するかどうかが検討されている。それを受け、ワシントン州スポケーン教区のトーマス・ダリー司教は、今週、ワシントン・エグザミナー紙のインタビューに対し、州議会で提案された法案(HB1098)が制定されれば、カトリック聖職者は遵守を拒否するだろう、と語った。- 3月3日付 ライフサイト・ニュース

ゆるしの秘跡の守秘義務は交渉不可能 

トーマス・ダリー司教は、そのような法案が制定されてた場合、告解の封印を破るくらいなら、刑務所に入ると宣言しました。また、同僚のカトリック聖職者たちも同じことをする、と確信していると付け加えました。さらにダリー司教は、「秘跡を破ることは、交渉可能な問題でない」と断言しています。

※3月8日付、アメリカン・マガジンによると、ワシントン州とデラウェイ州では、この法案が法律化されるかどうかは数週間以内に決定するとあります。

同じくデラウェア州ウィルミントンでも、司祭が秘跡を破ることになる法案を通そうとしています。ウィルミントン教区の司教も、断固とした態度で臨んでいます。

ウィルミントンのウィリアム・E・ケーニッヒ司教は、秘跡に反対する法案が提出されているにもかかわらず、懺悔室の封印は「いかなる状況においても破られることはない」と明言している。- 3月9日付 ライフサイト・ニュース

※3月8日付のデラウェイ・ニュースによると、この法案が、法律化されるかどうかは数週間以内に決定するとあります。

※いずれも、3月8日以降、まだ情報が更新されていないようです。

2019年カルフォルニア州議会においては、司祭が告解室で聞いたある種の情報を義務付ける法律を制定しようとしました。その試みは失敗しました。前例から考えると、今回も失敗する可能性が大きいのでは、と予測されますが、また誰かが同じことを試みないとは確信はできません。司祭の仕事を妨げる同様の試みが、今後、立法府に入る可能性は高いといえます。

A Church Interior with Women at the Confessional 1863
Ludwig Passini

ゆるしの秘跡の守秘義務は不要なのか?

一方、ある司祭は、聖職者のもつ守秘義務の特権を、撤回する考えを支持しました。以下は、その概要となります。

ウィスコンシン州ミルウォーキの引退したカトリック司祭、ジュームス・E・コーネル司祭は、守秘義務を認める特権を撤回する考えを支持する論説を執筆した。ウィスコンシン州のジェローム・リステッキ大司教は、コーネル司祭の不穏な働きを嘆き、彼から秘跡をあたえるすべての権限を剥奪した。- 3月23日付 ライフサイト・ニュース

ゆるしの秘跡をおこなう権利は、司祭の大司教、もしくは司教から与えられます。したがって、コーネル司祭は世界中どのカトリック教区においても、告解を聞くことができなくなるのということです。もしコーネル司祭が(あるいは他の司祭が)告解の封印を破った場合、自動的に破門されることになります。

司祭を通し、神に罪を告白する告解の秘跡は、世間が考える「告白」とは異なるものです。司祭をとおしてさずかる罪のゆるしは、魂の救いを伴うものだからです。秘密を明かさなかったため、殉教した司祭もいるのです。そして、いかなる状況であれ、告解の封印を破った司祭は、自動的に破門になります。

私は、リステッキ大司教が、コーネル司祭の権利を剥奪したことは、彼が破門になる危険をなくすためでもあったと考えます。そして告解の内容が秘密にされるという確信は、信徒に、魂の救いである秘跡を受けることを、勇気づけたのではないかと思います。

告解の内容に報告義務を課す法案:弁護士の考察

倫理・公共政策センター(Ethics and Public Policy Center)が発表した記事の中で、300以上の宗教団体などの権利を擁護してきた、優れた訴訟弁護士であるエリック・クニフィン氏は、ワシントン州、バーモント州、デラウェア州の法律案について、次の3つの大きな問題点を指摘しています。

1) 提案された法律は、政府が司祭に告解室での封印を解くよう強制できると誤って推定している。現実には、これらの法律が成立した場合、司祭が「州に証拠を突きつける」のではなく、神父が刑務所に収監される結果となる。

2) 提案された法律は、告解室の封印を解くことで、子供たちがより安全になると誤って推定している。現実には、これらの法律が成立すれば、虐待者(および他の罪人も同様)は告解から遠ざかる傾向がある。その結果、子どもたちはより安全でなくなる。

3) 提案された法律は、宗教を差別している。提案された法律は、聖職者の秘匿特権(すなわち告解室の封印)を攻撃するが、弁護士と依頼人の秘匿特権(弁護士は依頼人が話したことを明らかにしない)については言及しない。つまり、この法律案によれば、世俗的な理由であれば秘密はOKで、宗教的な理由であれば秘密はNGということになる。これは宗教に対する差別であり、違憲である。

宗教的な信仰を守ることも重要である。そのどちらか一方を優先させるのが議員の仕事ではない。両者を両立させるために、配慮と尊敬をもって努力することだ。

ボストン・グローブ紙のコラムニスト、ジェフ・ジャコビー氏が最近書いた「子供を守ることは極めて重要な問題である」という言葉を引用して、クニフィン氏は締めくくっています。

このような法案は、宗教の自由を脅かすものです。破門か逮捕かの二者択一を司祭に強いるような社会になってはならないのです。

ゆるしの秘跡の暴露本


前述したように、告解室は厳重な機密保持の場です。

2年前、そんな告解室の秘密を暴くような本が出版されました。フランス、ヴァンサン・モンガイヤール著、「私はあなたの罪をすべて許します」(Je Vous Pardonne Tous vos Péchés)です。この本は、40人の神父が聞いた告白の実話を集めたものです。この本のためにインタビューを受けたある司祭は、教会の法律に違反しないように、告白の個人的な詳細はすべて変更されていると説明しています。

ハーパーズ誌が翻訳した抜粋は、50代のカップルのコミカルな告白から、犯罪者に赦免を与えた後のある司祭の後悔まで、多岐にわたります。

私の印象では(私が読んだ抜粋だけでは)、告白のほとんどは、人々が犯す一般的な誤り(例えば、その多くは夫婦間の不貞に関わるもの)についてのものだと思われます。この本が教会法に違反していないとしても、私は、このような話を明らかにするよりも隠す方が、ゆるしの秘跡の尊厳にかなうと思います。

ゆるしの秘跡についての司祭からの指摘

ライフサイト・ニュースのインタビューで、神秘主義者としても知られる、ミッシェル・ロドリゲス司祭が、私たちが直面している霊的な戦争について話しています。そして、祈りとともにゆるしの秘跡を受ける、ということの大切さを強調しています。ゆるしの秘跡について、ロドリゲス司祭は、次のようにアドバイスしています。

1)小さな罪(小罪)から大きな罪(大罪)まで告白する。(自分がしてしまった罪の告白)

2)あなたがすべきであったのに、しなかったことを告白する。

私は今まで2)の、すべきであったのにしなかった、ということにはあまり注意を払っていませんでした。「やらなかった」という単純な事実は、七つの大罪の一つである「怠惰」ではないかと思い至りました。

仕事をし、忙しくしているからと言って、怠惰の罪から解放されるわけではないのだ、と知っています。その一方、神の恵みによってのみ気づくことができる、霊的な怠惰の罪は、やっかいだ、と感じています。

第二バチカン公会議以降、告解に行く人の数は減ったと言われています。私はゆるしの秘跡をさずかり、心と体が軽くなった経験を何度もしています。私だけではありません。私のプロテスタントであった知人も、改宗し、はじめてゆるしの秘跡を受けたあと、文字通り背中から大きな荷が降りたような軽さを背中に感じたそうです。

マザーTは、いつも私に、祈り、ゆるしの秘跡にあずかることが、いかに大切かを話してくれていました。私たちは、このような神秘的秘跡をさずかれる恩恵を見逃すべきではないのです。

告解の封印と宗教の自由

米国では、国家と教会の間の亀裂がますます大きくなってきています。先に述べたように、最大の問題は、教会の信教の自由を脅かす圧力です。圧力には、カトリック系病院に中絶を行わせる法律、教会関連団体に従業員が使用する避妊具を負担させる法律、カトリック養子縁組機関に同性カップルの養子縁組をさせる法律、(現在)聖職者の懺悔特権を剥奪する法案などです。

告解の封印を解くことを司祭に要求するという話は、女性の「聖職化」を支持する人々を思い起こさせます。

1994年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、「教会には女性に司祭叙階を授ける権限は一切ない 」と宣言しました。今回の聖職者の特権の剥奪に関しても「教会にはそれを行う権限はない」のです。告解の印は教会法であると同時に「神の教え」であり、教皇自身が変えようと思っても変えることはできないものなのです。

ところが世俗国家は、カトリック教会とは、世俗的国家から独立した権利を持っている、という事実をすんなりとは受け入れてはくれないようです。

この問題で「児童性的虐待」という言葉を持ち出す本当の目的は、人々の感情を揺さぶり、この法律案が、実際には変えられないものを変えようとしている、という事実に目をつぶることなのです。この法律案は、児童虐待を防止するためのものではありません。宗教の自由に対する攻撃、秘跡に対する攻撃、教会に対する攻撃に他なりません。

Image: Wooden judge`s gavel. Law. Judge`s office

悪魔の誘惑に打ち勝つために- エドワード・ミークス司祭

今週は四旬節(レント)の3週目にあたります。四旬節は、誘惑や悪霊についてよく耳にする時期です。四旬節の第1週目に、メリーランド州タウソン市にあるクライスト・ザ・キング教会のエドワード・ミークス司祭が、悪魔の霊的攻撃についてのビデオをアップロードしました。彼はかつて、コロナワクチン義務化に反対し、話題になりました。ライフサイト・ニュースによると、エドワード・ミークス司祭は、中絶、性転換手術、ポルノ、ドラッグショーを「悪魔の狂気」と断じた、とありました。

A Blanket of Demonic Insanity – Fr. Edward Meeks

私はヘッドラインだけ読み、ミークス司祭が、最近の世相への非難を強い口調で述べていたのかしら、と想像してしまいました。しかしビデオを確認し、そうではないことがわかりました。はじめから彼の話を聞くと、悪魔の誘惑に対抗するためのお説教がメインであり、ヘッドラインにある言葉だけをピックアップして読んだ時と、受ける印象がずいぶん違うことに気が付きました。お説教の最後の部分では、悪魔の霊的攻撃を見極めることができるよう、私たちにとり理解しやすい説明をしてくれています。

悪魔の誘惑とは?アダムとエバ、イエスからの教訓

まずミークス司祭は、お説教の前半で悪魔がアダムとエバ、そしてイエスキリストを同じような方法で誘惑したことにふれています。そして誘惑されたアダムとエバ、イエスから、私たちが「否定的教訓」と「肯定的教訓」をどのように得ることができるか、という点について述べています。以下に、ミークス司祭の指摘を紹介します。

The Creation of Eve (Hours of Catherine of Cleves, ca. 1440).

1.食べるー禁断の果実への誘惑とパンへの誘惑

エデンで、悪魔は蛇に化けて、エバに(注)禁断の果実を食べるように勧めた。 (創世記 3)
神はアダムとエバに、その実を食べたら死ぬとはっきりと告げていた。しかし、エバは、その実を食べても死なないという蛇の言葉に納得してしまう。悪魔の誘惑に、負けてしまったのである。 

40日間の断食の後、空腹のイエスは、石をパンに変えてみるように促された。イエスは悪魔に「人はパンだけで生きることはできない」(マタイ4:6)と言い、悪魔の罠にはまらなかった。

(注)エバが食べたのはリンゴだとすぐに思い浮かべるが、聖書では明確には述べていない。ミークス司祭も聖書の通り「禁断の果物」と述べている。

2.あなたは神のようになる

蛇はエバに「この禁断の果実を食べれば、神のようになれる」と言った。実は、アダムとエバは、永遠の命を持つ神に似せて造られていたので、神のようになる必要はなかった

悪魔はイエスに、「神殿の高台から飛び降りなさい。そうすれば、自分が神であることを証明できる」と言った。さらに悪魔はイエスに「私を拝むなら、この世のすべての王国とその栄光を与えよう」と誘惑した。イエスは悪魔に言った。「あなたはあなたの神である主を礼拝し、その方だけに仕えなさい」イエスは、誘惑されながらも、悪魔の罠にはまることはなかった。

ミークス神父の説教は、私たちが悪魔の誘惑に打ち勝つためには、神の言葉である聖書が不可欠であることを教えています。

エクソシストは悪魔に命令を下し、追い出すが、悪魔と会話はしません。(してはならない)。というのも、悪魔(人間の弱さや人に言えない彼らの悪の秘密をすべて知っている)と会話することは、悪魔にその人間を利用する機会を与えてしまうからです。蛇の姿をした悪魔がエバを誘惑したとき、エバは自分の言葉で悪魔に答えてしまいます。しかしイエスは、悪魔の誘惑に。聖書の言葉をもって答えておられます。

世相に見る悪魔の誘惑と攻撃

そしてお説教の後半部分で、ミークス司祭は、確かに、ヘッドラインにあったようなことを発言していました。

まずミークス司祭は、悪魔は、ほとんどの場合、悪魔の誇張した姿(overplay his hands-悪魔が自分の能力に対して自信過剰になり危険を犯す姿)を私たちに見せるものだ、と述べています。そのうえで、ミークス神父は、「悪魔が今日、私たちの世界でそのようなことをしている兆候がある」と指摘しています。そして、ここでミークス司祭のヘッドラインにもあった発言になります。彼は、そのような悪魔的な狂気は、以下のような形で現れていると言います。

1.胎児の殺人。(中絶)
2.胎児を守る人への攻撃。
3.(注)ジェンダー・イデオロジーの名の下に、子供たちを外科的に切断すること。すなわち性転換手術。
4.公共図書館でドラッグ・クイーンによる子供向け本の朗読。
5.公立学校の図書館にあるポルノ本。
6.悪魔崇拝を祝うテレビのプライムタイム番組。

(注)人種と同様に、男性らしさ、女性らしさは、価値観や社会的地位を伝える社会的に構築された概念である。Gender Ideology | Encyclopedia.com

といった具合です。

以下は、彼のお説教からの抜粋です。

私は、何百万人もの理性的な人々が不合理なことをしているのを見るたびに、起こっていることの中に(注1)悪魔の要素を探します。(注2)悪魔的な狂気の毛布が地に降り注ぎ、私たちはそれを目の当たりにしているのです。

(注1)悪魔のしわざではないだろうか、と怪しく思う。

(注2) 英語の「a blanket of fog」という表現から、悪の狂気が霧のように地に降り注ぎ、地上を覆っていることを意味していると考えられる。

上記の事柄は、いずれも米国で頻繁に議論されていることがらです。一方、米国とは対照的に、日本ではキリスト教的世界観や、反キリスト教的世界観を反映した社会現象はほとんどありません。けれども残念なことに、ミークス司祭の言うような悪魔的な狂気の働きが、日本でもすでに起こっていることは明らかです。日本では、キリスト教的西洋文化と、反キリスト教的西洋文化の違いを全く知らないまま、西洋文化の多くの側面を喜んで受け入れています。日本のような国におき、そのような悪魔の狂気がどのような悪影響を及ぼすことになるのか、懸念せざるを得ません。

悪魔の罠におちいらないために

司祭の仕事は、私たちの魂の救いのために霊的危険を警告することです。しかし司祭が伝えようとする真実のなかには、目に見えない悪魔の存在などがあります。このようなことは、多くの人にとり、古い迷信のように思われたびたび無視されがちです。ベネディクト16世は『Introduction to Christianity』(P.39-40) の中で、キルケゴールの話を引き合いに出し、無視され続ける司祭や神学者を、危険な火事を知らせようとする道化師に例えました。

バチカンのエクソシストであるガブリエル・アモース師は、著書『An Exorcist Explains the Demonic』の中で、原因不明の身体や精神の病が悪魔の攻撃であるかどうかを見極めるプロセスについて述べています。医学博士については、「実際、彼らの多くは悪霊の存在を想像することさえできない 」と述べています(p.85)。

頭では理解していたとしても、目に見えないものがあるということを心で実感することは、多くの人にとって難しいことだと思います。例えば、私の場合、毎週日曜日、ある教会のミサに参加しています。司祭は説教の中で、大罪の恐ろしさについて語ることがあります。私は教会の教えを信じています。けれども、司祭のお説教に、集中できていない自分がいることがよくあります。地獄に落ちる罪の本当の恐ろしさを感じていないことがあるのです。もっと司祭の話に耳を傾ける必要が私自身にもあります。

日常生活においては、何をしていても「祈り」を忘れずにいたいと思います。祈りは神に心が向くことですので、悪魔の誘惑にあってもより良い選択ができるようになるからです。悪魔の攻撃を防げるよう、神様のお恵みを願いたいと思います。私にも、そして世界にも、神様の御心が成されることを心から祈ります。


FBIが伝統派カトリック信者を監視

最近のFoxニュースによると、FBIがラテン語ミサを好む伝統派カトリックを急進的伝統主義カトリック(RTC)と呼び、監視をしようと試みていることが判明しました。ニュースは、教会の教えに従おうとする、伝統派カトリックへの弾圧が、一層ひどくなることを思い知らせるものでした。

この事実は、FBI内部で回覧されたメモに記されており、そのメモは、元FBI捜査官で内部告発者となったカイル・セラフィン氏により暴露されています。メモには、急進的過激派伝統主義カトリック信者と「白人民族主義者」がオンラインでの交流を試みることの危険性を懸念している、と書かれていました。

USCCBは 「過激派 」を非難する一方、カトリックを標的にしたFBIのメモは 「厄介で不快だ 」と述べています。米国カトリック司教協議会のティモシー・ドラン枢機卿は、FBIのメモに対して、「はっきりさせておきますが、USCCBは人種差別を信奉する者を全面的に非難し、我々のコミュニティーの安全を守る法執行機関の仕事を全面的に支持します」と述べています。- カトリック・ニュース・エージェンシー

FBIのメモには「白人民族主義者」は、伝統派カトリック教徒が交流しやすいものである、としていました。この主張には、左派のプロパガンダで有名な南部貧困法律センター(Southern Poverty Law Center)を引用する以外、何の根拠も示されていません。問題は、「白人民族主義者」「カトリック伝統主義者」を同列することにより、伝統主義=差別主義のような印象を与えてしまう可能性です。教会のことをよく知らない第三者であれば、FBIのような権威者の貼ったラベルを信じてしまうかもしれません。そのような場合、誰がその報道に責任をもつのでしょうか。FBIが、教会ラテン語ミサに参加する人々を監視することが正当化できるのであれば、次は誰を監視することになるのでしょうか。ライフサイト・ニュース

ラテン語ミサの制限で教会内の分裂を招く

2022年、聖母マリアの誕生日を祝う9月8日から始まったミサの制限は、フランシスコ教皇によると、カトリック信者をより強く結束させることを意図していました。

確かにより強い結束は重要です。聖書では三つよりの糸(ひも)の例え(コヘレト4:12)を用い、悪魔に対抗するために、結束することが大切である、と説いています。しかし、すでに大多数の信者が「ノブス・オルド」と呼ばれる口語訳、現地の言語で行うミサを祝っており、ラテン語ミサを好む教会信徒は、少数派でした。なぜわざわざラテン語ミサを制限したのでしょうか。

ベネディクト16世がラテン語ミサ制限を撤廃したことは、伝統派とリベラル派の「対立」ではなく「調和」をもたらしました。そしてベネディクト16世は第二バチカン公会議、1996年の新しいミサ書にもかかわらず、ラテン語ミサは決して禁止されていたわけでないことを明確にしています。さらにラテン語ミサは大切な教会の遺産であり、多くの人々に精神的な栄養を与えていると述べています。

またこの制限は「結束」の名の下に、ラテン語ミサが、スペイン語ミサ、英語ミサなど特定の言語の人を対象としたミサではない、という事実を無視しています。世界中の違う言語をしゃべる人々が、第二バチカン以前のようにラテン語ミサでは合一し、同じミサに参加することができるからです。

バチカンによる制限を受け、私たちの司教も教区内のラテン語ミサの回数を減らすことにしました。私の教会のラテン語ミサは削減され、多くの伝統派カトリック教徒が、他のラテン語ミサのある教会に通うようになりました。ある女性は、「もうこれ以上、次は何があるのかしら、と考えるのに疲れたの。心配したくないから、カトリックSSPX教会メンバーとなる」とカトリックの一部である教会へ行くようになってしまいました。ラテン語ミサの結婚を、制限により断念した若い20代カッブルもいました。彼らは「伝統的ラテン語ミサを予約するには遅すぎると言われた」と本当にガッカリしていました。彼らも、結婚後、離れた場所の教会でラテン語ミサに参加するようになりました。小さきテレジア像の前で、一人で祈る時間をいつも過ごしていたある女性は、ラテン語ミサ最後の日、「教会に裏切られた気分です」と言っていました。その日以来、彼女も見かけていません。

ラテン語ミサ禁止の本当の目的

ラテン語ミサの何が、FBIやバチカンをここまで疑心暗鬼にさせるのでしょうか。

最初に考えられるのが、政治的理由です。今回の背景に感じられるFBIの本当の思惑とは、現在の政治に対し、人々に違う視点を与える可能性のある人々の排除だと考えられます。伝統派カトリックたちの多くは、この世の権威者に盲目的に屈服することはありません。事の次第によっては、妥協し、盲目的に権威者に屈服することが神に背くことになる、と恐れるからです。保守派キリスト教徒と同じサイドにたち、この世の権威者が決めた「政治的正しさ」に、疑問をなげかけるのがその伝統派カトリックです。そして教皇に従うカトリック教徒は、国が完全に彼らの思想をコントロールするのが難しい人々なのです。つまり、良心的なカトリックは国家の飼い犬ではないのです。

このことを裏付けるかのような世論調査結果では、伝統的なカトリック信者は、最近の「政治的正しさ」に反する立場をとる傾向が強いことが確認されています。例えば、伝統派の圧倒的多数が反対する中絶、同性婚などです。ラテン語ミサを制限する本当の理由は、社会的な 、いわゆる「改革者 」の邪魔をする人々を弾圧し、迫害することであることは間違いないでしょう。ラテン語ミサに参加する人々が過激派のレッテルを貼られ、扱われれば、社会全体が彼らを無視する可能性が高くなるからです。 (調査の詳細はライフサイト・ニュースの記事を参照)

教会における腐敗と堕落

では、教皇に従うべき伝統派カトリック教徒たちが、なぜミサを制限されることに不満を抱いているのかです。その大きな理由とし、この制限がただの制限にとどまらない、光と闇の戦いのはじまりの一環であると認識しているためです。

一般的に、ラテン語は悪魔が耐え難いほど嫌う言語、といわれています。そしてその悪魔との戦いは、黙示録、教会が伝える聖人たちの預言、聖母マリアの数々の出現が預言し警告しているように数限りなくあります。それらの預言は共通し、この世の終わりが近づいたときの教会が大規模な腐敗に陥ることを警告しているのです。

この堕落のなかには、教会の世俗化も含まれています。近年の教会における世俗化の例とし、コロナ中2000年の教会の歴史のなかではじめて、復活祭までも完全に教会が閉鎖されました。教会は政治的、世俗的圧力に負けたのです。

次の腐敗は、神に従う人々への迫害です。ある司祭は、生まれてくる命を守るため多くの良い働きをしていましたが、過激すぎるとされ還俗させられました。司祭として活動する資格をはく奪されたのです。一方、同性愛を認めるなど、教義に反する過激な発言を続ける司祭には沈黙をつらぬいています。

そして最も恐ろしい腐敗は、唯一の神以外の礼拝です。極めてスキャンダラスであったバチカンのパチュママ事件をはじめ、教皇とカナダ枢機卿の異教であるアメリカンインディアン儀式への参加、数々の耳をうたがうニュースからは、キリストを信じるカトリック教会権威者としての威信は感じられません。言い換えれば、教会権威者たちが、キリストを信じる組織であるという確信を部外者に与えるものではないと言えます。教会の腐敗や堕落は、一般の企業組織で時々起こる腐敗よりもはるかに危険です。なぜなら、教会の「ビジネス」は魂の救済だからです。堕落した実業家は自分の魂に損害を与えます。腐敗した教会の指導者は、彼の群れにいるすべての人の魂を危険にさらすのです。

このような闇の動き、悪魔に対抗する最も効果的な武器が、ラテン語ミサなのです、すなわち教会は、今、悪魔と戦うための強力な武器を制限しているのです。繰り返しになりますが、この制限は教会を、内部から、ゆっくりと破壊しています。破壊が目的でない限り、過去からの信仰の宝庫であるミサに対する制限は無意味なだけなのです。

新たな規制が始まるのか?

現在、フランシスコ教皇は、新たな制限をラテン語ミサに課せようとしていると噂があります。先に述べたように制限を受け、伝統派の人々は、それまでいた小教区からラテン語ミサのある小教区へ移動してしまうようになりました。結局のところ「ノヴス・オルド」を好む人、「ラテン語ミサ」を好む人という図式は変化していません。

私は伝統主義とし、同じ伝統派の人々が同じ教会にとどまることを望みます。すべての有効なミサは、キリストの御身、血、霊魂、神性を私たちにもたらします。もしラテン語ミサ制限の隠れた目的が、「分裂」にあるならば、あえてラテン語ミサを諦め、同じ場所にとどまるほうがよいことが明らかであるからです。

なぜなら私の関心は、ミサの制限そのものより、むしろ悪魔の最初のターゲットであるはずの一番強い人、司祭たちの状況にあるからです。先に述べたような教会の動向から、神の教えに従う司祭たちは目にみえないこところで苦労していることが想像されます。そのような神の働きに携わる人々を勇気づけることが必要です。聖書には、「強盗はまず一番強い人を縛り、その家を強奪していく」(マタイ12:29)とあります。このような事態を避けるためにも、忠実な伝統主義者は「神の武具を身に着け」(エペソ6:11)、神から与えられた場所で祈ることが重要だと考えます。自分の持ち場にとどまることこそを、最優先させるべきだと考えます。

Email 画像:E-mail Picture. Image: 5677401 (dreamstime.com)

ベネディクト16世の葬儀:霧に包まれたバチカン

不思議な霧

ヤキマ・ヘラルド・リパブリック紙 によると2023年1月5日、ベネディクト16世の葬儀の前、そして葬儀の間、、ローマではめずらしい霧がサンピエトロ大聖堂を覆いました。(動画:Guardianより)

Time-lapse shows thousands of people gathering to attend funeral of Pope Benedict XVI
Guardian News




国際児童擁護者の弁護士エリザベス・ヨア氏は、ライフサイトによるインタビューで次のように述べています。

彼の葬儀の日、サンピエトロ広場に空から非常に珍しい霧がおりてきました。実は、イタリア人たちは、今でもそのことについて話している、と私は聞いています。これは、私たち全てが注意を払うようにとのしるしです。教皇ベネディクトは、「キリスト幼児時代の物語」(Jesus of Nazareth: The Infancy Narratives)に関する著書の中で、聖なる雲、霧、シェキーナ(1)について話しています。それは神の存在のしるしであり、雲が臨在の幕屋の上に浮かんでおり、神が臨在していることを示すものです。

– エリザベス・ヨア氏

1.シェキーナ:SHEKINAH;「住まい」を意味するヘブライ語。詳細はリンクにあります。 Jewish Encyclopedia

神の怒り: 雷 / 神の臨在: 雲

この出来事を偶然の自然現象ととるか、それとも神の啓示と考えるのか、人それぞれだと思います。しかし、ただの偶然にしては出来すぎていることも事実なのではと言えます。例えば2013年2月11日、ベネディクト16世が辞任したその日に、聖ペトロ大聖堂のドームに2回、雷が落ちたことは有名です。雷はたびたび聖書のなかで「神の怒り」として描写されています。

私は、ヨハネ12:29のなかで神の声が聞こえても「雷だ」という不信心者の人々の話も思い出されました。

 29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。-ヨハネ 12:29

もし私が、その場にいて、神の声を聞いたとしても、恐らく何が起こったか信じられず「雷」だと言ったと思います。

30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。-ヨハネ 12:30-31

31節では、神の敵であるものにとっては、神の怒りがくだる、ということを述べています。神の敵、この世の支配者にとっては「雷」は恐ろしいしるしです。もしかしたら辞任の日の雷は、バチカンの腐敗を謀る者たちの心に恐怖を与えるための、神からの警告だったのかもしれません。

出エジプト40:34で述べられている「雲」の存在は、「霧」ともとらえることはできます。その当時の人々がその雲について、どのように感じていたか、聖書では述べていないため知ることはできませんが、人々はその幕屋の上の雲に神の存在を感じていたと、思われます。

神からの警告

聖書には、最後の審判の日や時刻は、神の子イエスでさえも知ることができないとあります。しかし、もし雷や霧が神の裁きが近づいていることを示すものであるとしたら、私たちは直ちに自分を振り返り、思い、行いをたださなければ大変なことになります。

もし霧が神の存在であるとすると、単なる自然現象として片付けるべきではないはずです。その現象に注意を払うべきである、というエリザベス・ヨア氏の意見に賛成です。「雷だ」と言い、神の声を信じなかった人々はどうなったのでしょうか。私たちは、もっと神のメッセージに心をかたむけることが大切なのでは、と思います。

ベネディクト16世の葬儀:ベネディクト16世を守った衛兵たち

バシリカの大司祭であるガンベッティは、聖具室に戻った後すぐに再び現れ、すべての照明を消し、バシリカを空にして翌朝まで閉鎖するよう命じた。 彼は文字通り、教皇ベネディクトがバシリカに安置されている3日間の夜間、教皇ベネディクトの遺体を、一人で、暗闇で、無人で、棺の上にさらすことを望んだのである。 (Barnhardtより抜粋、要約)

スイス衛兵たちは、ガンベッティ大司祭から、今は非番で、朝になったらまた出勤しなければならないことを告げられても、立ち去ろうとしませんでした。彼らは、ベネディクト16世の遺体と一晩中一緒にいることを志願したのです。

彼らは兵士です。兵士は上からの命令を必ず実行するようにトレーニングを受けていることは周知の事実です。しかし、あまりにもひどいベネディクト16世の遺体に対する冒涜に、彼らは従うことができませんでした。

彼らの行動は、主に結ばれた者、聖職者について聖パウロが信徒へ願ったことを思い起こさせます。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、またそのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。(テサロニケの信徒への手紙 1 5:12)

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ベネディクト16世の葬儀:鐘も鳴らさず、半旗もされず

サンタマルタでは、ベネディクト16世の訃報が流れる以前から通常通りの業務をする、と宣言していたそうである。いいかえると「何もおきていない」からである。そしてバチカン市国では鐘もならされず、半旗にもされなかった。 (Rorate Caeli より要約。https://rorate-caeli.blogspot.com/2023/01/the-funeral-rites-of-benedict-xvi-and.html

元教皇への敬意などまるでない行為だといえます。

1月5日のベネディクト16世のお葬式が行われました。葬儀参列に関し、イタリアとドイツ以外の大臣は、参列しなくてよいという命令が出されたそうです。

しかし、多くの国が

「じゃあ大臣ではなく私個人として出席します」

とお葬式に参列したそうです。

このような命令がだされたことは、私の知識の範囲では聞いたこともありませんでした。お葬式、しかも教皇でもあった方が亡くなったということは、多くの人が集まることを前提としています。コロナが怖い等があった、と仮定したとしてもおかしな話です。何か別の納得のゆく正当な理由でもあるのでしょうか。

ベネディクト16世のお葬式自体も非常に質素な感じでした。

バチカンの発表によると「ご本人のご希望」だったそうです。彼らが真実を述べているのかは神のみぞ知る、ということでしょう。

またミサのその短さにも驚きました。

まず現代ミサは、4種類のパターンから司祭が自由に選択できます。4種類の中で最も長いミサは、中世の伝統的なミサのスタイルに近い、一番格式の高いミサとなります。ベネディクト16世のミサは、四種類のミサのなかで二番目に短いミサ、中クラスのミサとなりました。疑問の余地なく、元教皇ベネディクト16世ですから、最もフォーマルなミサになると期待していたのですが。期待を裏切り、二番目に短いミサでした。一番短いミサのパターンは、しばしば毎週行われる日曜ミサで使用されますので、さすがにそれはできなかったようです。

なぜそれほどミサの長さが気になったのか。

ミサは神への祈りと奉納だからです。またミサはカトリック信徒の信仰生活の中心でもあり、最も大切な要素の一つです。そのように大切なミサが短かったのです。あの短いミサが伝えるのは、ベネディクト16世のための祈りを少しでも早く終わらせよう、できるだけ通常の「奉納」で終わりにしよう、そのようなニュアンスだったように感じさせられるからです。

ベネディクト16世の葬儀:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある

ベネディクト16世の葬儀のビデオを見ていて、ベネディクト16世に対するひどい扱いに気が付きました。

Traslación del cuerpo de Benedicto XVI a la Basílica de San Pedro 2-1-2023
En ti confío

まず彼の遺体がセント・ピーター・バジリカ教会に移動するときの状況です。彼の遺体がのせられたのは、グレーのビジネスで使用するようなバンです。そしてそのバンの後に、ほんのわずかな人達の葬列が続いています。

遺体を運ぶ車のあとに葬列が続くのは、イタリアではごく当たり前の習慣であり、教皇であったベネディクト16世には長い葬列が続くはずでした。おなさけで葬列をつけたような事態になったのは、バチカンが、長い葬列を認めなかったためです。多くの司教たちが葬列に加わりたかったのですが、拒否され、参列できなかったのです。

人々は、「こんなことは、イタリアで一番小さな村の男にさえされない 」と言っていたそうです。 (Rorate Caeli より要約)

到着した教会にも寂しい葬列以外映っておらず、ビデオだけみると孤独な人生を送った人の葬列のようです。事実は違います。ビデオには映っていませんでしたが、セント・ピーター・バジリカ教会の外にはたくさんの人が、彼の遺体が到着するのを待っていた、とのことです。

聖職者であり教皇であったベネディクト16世への仕打ち、死者への不敬は、許されてはいけないことです。このような仕打ちが行われたということは、ベネディクト16世がまちがいなく狼と戦っていたことの証明だといえるのではないでしょうか。

聖書では、以下のように述べられています。

私の為にののしられ、迫害され、見に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者も、同じように迫害されたのである。 (マタイ5:11,12)

ベネディクト16世帰天: 「私のために祈ってください。わたしが 狼を恐れて逃げないように」

” Pray for me, that I may not flee for fear of the wolves.” (1)

(ベネディクト16世が教皇として、はじめてしたスピーチの抜粋)

イタリア、ローマ時間の12月31日、午前9:34 ベネディクト16世が、95歳で死去されました。彼は1927年4月16日の聖土曜日に誕生、その後、復活祭のために用意された新しい聖水(2)で洗礼をさずけられた教皇でした。

一人一人に、神は特別なめぐみをあたえています。ベネディクト16世には神様から教皇になるための特別なめぐみが、生まれた日、そして洗礼の聖水にシンボライズされていたようです。

神を恐れる教皇であったことは、カトリック教義を忠実に守りつづけた、さまざまな彼の言動から明らかでした。私は、彼の最大の遺産は、次に述べる3項目ではないかと考えています。

1. 教会で行われた性的虐待の責任者を暴露し、処罰した。

2. 第二バチカン公会議以降、伝統的なラテン語ミサが禁止されたという印象を多くの人が持っているにもかかわらず、そのような禁止はなかったこと、司祭は自由にラテン語ミサを行うことができることを明らかにした。

3. 伝統的な英国国教会の諸派を、ペトロの座(正当な教会:ローマ教皇の権威を認める教会)との完全な交わりに復帰させた。

そしてバチカンの闇の部分である、バチカン銀行の汚職に関する調査を命令。バチカンATMが突然すべて停止、教皇を辞任しました。

辞任したベネディクト16世は、その後も教皇のみが、着用することが許されている白いヴェスメントを、常に着用していました。また教皇を辞任した時点で、通常、バチカン内を去ることが一般的ですが、彼はバチカンを去ることはありませんでした。一体彼の辞任劇に何が起こったのでしょうか。ベネディクト16世が沈黙をつらぬいていたため知ることはできません。

私はベネディクト16世の勇気と信仰にあらためて敬意を表します。なぜなら神が彼をおかれた場所から去ることを選ばず、羊を守る羊飼いとして、狼から逃げず、重荷を背負いつづけたていたように見えるからです。

(復活祭:一度この世の命を失ったキリストが死から復活し、死からすべての人々を救ったことを祝うキリスト教の祭日。イースター)

  1. Source: https://www.vatican.va/content/benedict-xvi/en/homilies/2005/documents/hf_ben-xvi_hom_20050424_inizio-pontificato.html (retrieved January 2, 2023).
  2. Source: Salt of the Earth (CD). Lighthouse Media, 2011
  3. . ATM突然停止基本的な情報リンク: https://www.nytimes.com/2013/01/05/world/europe/debit-and-credit-card-purchases-shut-down-at-vatican.html

詳細については、こちらをご覧ください。https://www.fromrome.info/2020/07/09/the-st-gallen-connection-to-those-snarky-vatican-atms/#:~:text=One%20of%20the%20intriguing%20historical%20events%associated%20with,4%2C%202013.%20It%20is%20an%20incontrovertible%20historical%20event.