聖ジャンヌ・ダルク:異端審問(3)

天の啓示を受けたジャンヌは、1429年にオルレアンを解放し、シャルル7世をフランス王に即位させました。しかし翌1430年、ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕らえられ、ルクセンブルク公ジャン2世の後見人のもとに置かれます。7月14日、ブルゴーニュ公は、イギリス王太子の名のもとに、ジャンヌを要求したボーヴェ司教、コーション(のちの異端審問裁判官)に、1万リーブル・トゥルノワで彼女を売り渡しました。

異端の罪に問われたジャンヌは、裁判にかけられることになります。ジャンヌが直面している戦いは、聖書にあるような「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの―エペソ6:12」となります。

ボールヴォワールの牢獄塔から飛び降りたジャンヌ

ジャンヌはボーレヴォワール城の塔に囚われていました。監禁中、彼女はコンピエーニュがイギリスに占領されようとしていること、イギリスが女性や子供を含むすべての民衆を虐殺しようとしていることを知ります。彼女は、コンピエーニュの救出に向かおうと、60フィート(約18メートル)の塔から脱出しようとしました。紐を何かにくくりつけ(紐をどうやって手に入れたのか、何にくくりつけたのかは不明)、窓から身を下ろし脱出しましたが、その途中で落下してしまいます。その高さにもかかわらず、彼女は一命を取り留め、塔の下で意識を失って倒れているところを発見されました。


ジャンヌは、それまでにも何度か脱走を試みていました。そのため、この脱走劇の後、さらに厳しい監視下に置かれるようになってしまいます。ジャンヌに現れる聖カタリナは,、彼女に語りかけ、彼女の行いを咎め、神の許しを請うように告げました。ジャンヌはその命に従い、司祭に告解をしています。聖カタリナはジャンヌに、イギリス軍がコンピエーニュを奪還できないだろうと告げ、その通りになります。


裁判でジャンヌは、コンピエーニュでの大虐殺計画の知らせを聞いて、「善良な人々を破滅させてまで生き続けるくらいなら、死んだほうがましだ と感じた」と語りました。異端審問官達はこの供述をもとに、彼女を自殺未遂で訴ったえたのです。

1万ポンド・トゥルノワの価値とは?

金銭を愛することは、すべての悪の根である(1 テモテへの手紙 6:10

ジャンヌが売られた金額の価値は、裁判記録にある彼女の鎧の値段を目安にして考えてみることができます。

あるウェブサイトによると、シャルル7世がジャンヌのために用意した鎧兜の値段は100エキュスで、2500ソル、125ポンド・トゥルノワに相当したとあります。

続けて「比較すると、この鎧兜は最も安価な装備品の2倍の値段でありながら、最も高価な装備品の8倍も安かった」と説明されています。(Suit of Armour | Joan of Arc | Jeanne-darc.info

単純計算すると、ブルゴーニュ公がコションから受け取った金額は、ジャンヌが装着していたような鎧80着分、あるいは当時作られていた最も高価な鎧10着分に相当するということになります。

ブルゴーニュ公爵は、この世で一時的な富を得ることを選択しました。彼が受け取った金貨は、ジャンヌの報酬であっただけではありません。それはこの世の神(Ⅱコリント4:4)である悪魔からの支払いだったのではないでしょうか。この世の富を支配するのは悪魔であり、天に富を積むことを教える神を裏切っているからです。

権力に執着したピエール・コーション司教

ボーヴェ司教、ピエール・コーションは、ジャンヌの異端審問裁判と火刑執行に関わった人物として名を残しました。1413年、不祥事を起こしパリから追放されるまで、イギリスからパリ大学でのポストを与えられています。記録によれば、彼は学識があり、野心に満ち、自分の邪魔をする者を徹底的に排除しようとする人物だったそうです。

Tombeau de Pierre Cauchon

ボーヴェはコーションの教区の中心都市でしたが、イギリス領とフランス領の国境近くに位置していたため、たびたび戦火に見舞われました。ブルゴーニュ公の側につき、最強の支援者となったコーションは、褒美としてボーヴェの教会を与えられました。その幸運に満足しなかったコーションは、ウィンチェスター家との結びつきを利用して、ルーアン教区も手に入れようとしていました。この時の彼の企ては失敗しています。けれどもそれで「諦めた」と、いうわけではなかったのです。

ジャンヌに鼓舞され率いられたフランス軍がオルレアンを解放したことは、ボーヴェにとって脅威となりました。実際、コーションはボーヴェからの逃亡を余儀なくされています。コーションは、ジャンヌの成功が自分の不幸であることを憎しみとともに理解していたのです。

ですから、偶然、コーションの教区で、ジャンヌが捕縛されたことは、彼にとり思いがけない幸運でした。イギリスは、ジャンヌに魔女の烙印を押し、シャルル7世が神によって選ばれた王でないことを証明したがっています。コーションは裁判官として、ジャンヌを魔女と断罪することができるのです。それだけではなく、イギリスの敵であるジャンヌ排除の成功で、念願のルーアン大司教になれる可能性も見えてきたのです。

美徳よりも悪徳を選んだコーション

コーションは学識ある聖職者でしたから、神の目から見て何が罪であるかを知らないはずがありません。それにもかかわらず、彼の富と地位への欲望はとどまるところを知りませんでした。聖書には、その様な人について「貪欲な目は、自分の持ち分に満足せず、蓄財に身を削るという悪は、魂を干からびさせる」(シラ14:9)と書かれています。

彼は司教でありながら、神の栄光よりも自身の満足を求めたことは明らかです。コーションは、ジャンヌの裁判以前から、真実の追求よりも賄賂を好んでいた人物として知られていたようです。コーションはブルゴーニュ公からジャンヌを買い取り、イギリスに売り渡しました。もし彼が、ジャンヌをイギリスに渡さなければ、少なくとも火刑に処されなかったに違いありません。

ジャンヌの死を待ち望んだベッドフォード公爵

Duke of Bedford by the British Library.

「英国人は百人の兵士よりもジャンヌ・ダルクを恐れ、彼女の名前そのものが敵の恐怖の源であった」(Fabré, Lucien. (Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.)

ジャンヌには多くの敵がいました。その最も強力な敵の一人である、ベッドフォード公爵は、誰よりもジャンヌのカリスマ性を認めていたようです。彼はジャンヌの死を、切望していました。ジャンヌのせいで、イギリス軍の士気は下がり、敵対していない都市でさえ反英感情が高まり、経済は大打撃を受けていたからです

ベッドフォードの忠実な共謀者であったコーションは、ジャンヌの素性を調査しましたが、魔女であることを突き止めることはできませんでした。ベッドフォードは、教会がジャンヌを火刑にすることができないのなら、自分に渡すべきだと要求しました。ある意味、この時すでに彼女の運命は決まってしまっていたのです。

華々しい経歴を誇るベットフォード公

ジャンヌの勝利が奇跡的であったのかは、敵であったベットフォード公を知ると、より明らかになります。ベットフォード公は、戦闘経験もない田舎娘など問題にもならない、当時最も戦略に長けた軍人の一人であったからです。

ベットフォード公の才能は、戦いだけでなく政治にも発揮されています。1415年、そして1417-19年にかけ、中尉としてイギリスの政務も担当しています。またヘンリー5世と共にイギリス王位継承権を認めるトロワ条約(1420年)を締結させました。また1424年、ヴェルヌイユでのスコットランドとフランスの争いに参戦、イギリスに勝利をもたらしています。

ベットフォード公は、ジャンヌの火刑の後、ヘンリー6世がフランスで戴冠式を行えるよう手配をしています。1431年12月16日、ヘンリー6世はパリのノートルダムで戴冠式を行いました。けれどもイギリスに不利に傾いた状況は、その後も改善されることはありませんでした。1435年9月14日、ベットフォード公はルーアンで死去、その一週間後に百年戦争は終結しました。

John, duke of Bedford – Wars of the Roses

なぜシャルル7世 はジャンヌを救おうとしなかったのか?

Charles VII

このような苦境にいるジャンヌを、王になったシャルルは、熱心に助けることはしませんでした。シャルルがジャンヌに無関心だったのは、政治的な抜け目のなさによるものなのか、それとも単なる恩知らずによるものなのか、歴史家の間でも意見が分かれています。

恐らくシャルルは、イギリスからジャンヌを取り戻そうとすることで、新たな戦争が始まる可能性を恐れたのかもしれません。あるいは、ラ・トレモイユのようなジャンヌの敵から、彼女を助けないよう吹き込まれたのかもしれません。シャルル王が喜んで支払った身代金は、ごく一般的な金額でした。シャルルは、多額の身代金を払いたくなかったと言われています。

ジャンヌはシャルルに、彼女には一年しか時間がないと常々言っていました。シャルルにとり捕縛されたジャンヌは、神の恩恵を失った存在であり助ける価値がない、と判断した可能性も否定できません。

ジャンヌの裁判について真実を要求したシャルル

ジャンヌの死後、シャルル7世は(可能であれば)汚名を晴らすために、彼女の復権裁判を要求しています。多くの人は、シャルルが復権裁判を要求したのは、自分の王位継承権が神からのものであることを証明する利己的な目的のためだったと考えています。

一方、ジャンヌが処刑されたと聞き、シャルルの心は傷ついたと言われています。優柔不断で臆病な王は、センチメンタルな気分も味わっていたに違いありません。

1453年、シャルルはイギリス軍をほぼすべて撃破して百年戦争を終結させ、フランスに平和と秩序の回復をもたらしました。その功績にもかかわらず、彼はジャンヌ・ダルクを見捨てた王として最もよく記憶されています。

ジャンヌは精神病だったのか?

フランスを勝利に導くよう、彼女を鼓舞した神秘的な声について、彼女の証言は次のように記述されています。

ジャンヌはまた、自分の声は大天使ミカエル、聖女カタリナ、聖女マルガリタであったと公判で述べ、さらに次のように述べた。「私は肉眼で、あなたがたを見るのと同じように、はっきりと彼らを見ました」

ジャンヌの声や幻視については論争があり、一部の精神科医は、ジャンヌが幻聴を伴う精神疾患の一種である統合失調症であった可能性を示唆しています。その一方で、教育を受けていないにもかかわらず、彼女には高い知性と記憶力、明晰さがあったことも認めています。これらの情報を分析し、彼女について書いたのは、精神病に精通した医師達です。

医学ライターのクリフォード・アレンは、統合失調は通常15歳ごろから現れ始めると報告しています。ジャンヌの場合、13歳で声を聞いたということから、症状が早くから現れていたことになりますが、決してありえないことではないと指摘しています。(The Schizophrenia of Joan of Arc – Medievalists.net

ジャンヌは戦術に長けていた?

一方、彼女に関する多くの不思議な逸話は、精神病や単なる偶然の一致として片付けるのは難しいといえます。仮に声の原因が、統合失調症だったとしましょう。その場合、ジャンヌは統合失調症の10代の若者が軍隊を率い、勝利に導いた歴史上唯一の例となります。

ジャンヌの復権裁判において、テルメ卿、シャルトル伯爵、騎士のチバウド・ダルマニャック卿は、「軍隊を指揮し、命令を下し、戦闘を整え、兵士を鼓舞することにおいて、ジャンヌ・ダルクは最も熟練した隊長達に匹敵するほど戦術に長けていた」と証言しています。戦闘経験のないジャンヌが、経験豊富な兵士を驚かせるような戦い方、特に大砲の扱い方を知っていたとは論理的に説明しがたいのです。

神を冒涜した兵士の死

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20:7)

声の真意について明確な答えはありません。はっきりしているのは、ジャンヌはその声に従い、多くの戦いで正確な予知を行ったということです。裁判では多くの人が証言しましたが、彼女の神秘的な予知能力に関する興味深い逸話が、パスクレル司祭によって語られています。

パスクレル司祭は、ジャンヌがある城に入る途中、兵士が若い乙女(ジャンヌ)が通り過ぎるのを見て、粗野な言葉を使ったと語っています。その兵士に向かって乙女は、神を冒涜していると叱責し、その兵士は、一時間以内に天の玉座の前に召されるいう裁きの前に、召喚されるまさにその時に、神を否定したのだと付け加えました。その兵士は1時間以内に溺死しました。これがパスクレル司祭の証言です。

㊟パスクレル司祭は、ジャンヌが城に入る途中、若い乙女が通り過ぎるのを見たある兵士が、下品な言葉を発したのを目撃しー(つまり)失礼な言葉に(神の)誓いを付け足したと語る。


パスクレル司祭の証言から、私たちはジョアンの予知能力について知ることができます。人は時に、家族や身近な人の悲劇を予知することができます。しかしジャンヌは、見ず知らずの兵士の死をはっきりと知っていたのです。


当時、兵士が神の名を軽々しく使うことは珍しくありませんでした。けれども、ジャンヌはそのような、軽々しく神を冒涜する行為を厳しく批判しました。現代人のほとんどは、この逸話に登場する兵士のように、神の名を軽率に使うことがもたらす結果に、気づいていないに違いありません。

異端審問での逸話

ジャンヌの裁判は1431年2月21日月曜日に始まりました。断食と祈りの四旬節は3月に始まることが多いのですが、1431年は2月23日(水)から始まっています。イエスの受難に心を合わせ、ジャンヌはどのような四旬節の祈りを捧げたのでしょうか。

神は確かに彼女を守っておられたのです。裁判では、司教コーションと審問官たちがジャンヌを陥れる罠を仕掛けていました。やがて彼らは、ジャンヌが簡単には罠にかからないことを知ることになるのです。

悪魔の名において

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)

ある時コーションは裁判の間、ジャンヌが、教導官を務めたラ・フォンテーヌと、二人のドミニカン修道士から助言を受けているのを目撃します。コーションは、その光景を見ると、すぐに彼の策略を邪魔するつもりだと気がつき、怒りに我を忘れました。そして彼らに対し「悪魔の名において、沈黙しろ!」と叫んだのです。それだけではなく、教皇とシノドスへのジャンヌの訴えを記録から削除し、何事もなかったかのように装ったのです。

ジャンヌに友好的な助言をした、二人のドミニカン修道士は、彼らの長上の機転で救われました。ですが、ラ・フォンテーヌは裁判が終わる前にルーアンから逃亡しています。

悪魔はコーションを通し、働いていたのでしょう。神の名を軽率に口にすることが神を否定することであるならば、悪魔の名によって命令を下すことは、あらゆるものの中で最も恐ろしい冒涜に違いありません。

異端審問官達を驚かしたジャンヌの答え

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ 10:16)

コーションを筆頭とする敵は、彼女に不利な証言をひきだすために、ありとあらゆる手をつくしました。ジャンヌには、正式な弁護人さえもつけられなかったのです。それにも関わらずジャンヌは、神学的な知識に精通している審問官たちが、驚くような答えを返しています。

例えば、コーションはジャンヌに「あなたは神の寵愛を受けていると思うか」と尋ねました。

ジャンヌは「もし私がそうでないなら、神が私をそこに置かれますように、もし私がそうなら、神が私をそうされますように。もし私が神の恩寵の中にいないと知っていたら、私はこの世で一番悲しい生き物になるでしょう」と答えました。

この答えに審問官達は、驚かされました。なぜならコーションのこの質問は、ジャンヌのような素朴な田舎娘には、知るすべのないトリックが隠されていたからです。

コーションの質問の罠

わたしの魂は屈み込んでいました。

彼らはわたしの足もとに網を仕掛け

わたしの前に落とし穴を掘りましたが

その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。

(詩編57:7)

カトリック教会の教えによれば、人が「恩恵の状態にある」と絶対的に断言することは、僭越(せんえつ)の罪となります。そのため、もしジャンヌが「恩恵の状態」である断言すれば、審問官たちは彼女が罪を犯している、すなわち悪に傾倒していると言うことができたのです。

一方、もし彼女が恩恵の状態にあることを否定すれば、彼女は自分が十分に悔い改めていない罪人であることを認めることになります。どちらの答えでも、ジャンヌは罪の状態で行動していたことになります。言い換えれば、彼女を導いていたのは、神ではなく悪魔だったということになるのです。

モーゼの律法とジャンヌの男装

女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。(申命記 22:5)

コーションは、彼女の証言にまったく反する数々の偽証拠と罪状を用いて、ジャンヌを異端として告発しました。恐らく、ジャンヌに対する立件がかなり弱いことを恐れ、何としても彼女を異端と断定したかったのだと考えられます。コーションは、ジャンヌが男物の服を着ていることを非難し、申命記22:5のモーセの律法を引用しました。

それだけでなく、ジャンヌの敵は、幻視や啓示を受けたことはなく、神の命令で行動したというのは嘘で、神を冒涜する異端者であるという旨の声明書に署名させるために、恐ろしい策略をめぐらせていました。

審問官達は、彼女の魂を救うという口実で、拷問を計画しました。ジャンヌに恐怖を与えるため、彼らは拷問器具を見せましたが、彼女は屈しませんでした。

異端審問による聖ジャンヌの裁判の記録や、死後の復権裁判の記録には、ジャンヌの素朴でまっすぐな人柄を窺い知ることができます。また家族、声、ジャンヌによるとされる奇跡について詳しく知ることができる逸話が数多く残されています (残念ながら、ここでそのすべてを紹介することはできません)。多くの逸話は、ジャンヌの聖性をはっきりと示すだけでなく、ジャンヌの聖性がコーションや審問官たちに決して認められなかったことも示しています。

聖体への冒涜

裁判員たちがジャンヌに対して行った非難のひとつは、女性が男装して聖体拝領を受けることは冒涜に等しいというものでした。

しかし、男女の服装に関するモーゼの掟が、実際にキリスト者の良心を拘束するかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれたからです。その際、モーゼの道徳律はすべて支持されましたが、民法や儀式律は支持されませんでした。

さらに、申命記の男性の服装に関する箇所はあまり知られておらず、熱心に探さなければ見つけることは困難であったでしょう。コーションと異端審問官が、時間と労力をかけて獲物を執拗に追い詰めたことがよく分かります。

時代遅れとみなされていた儀式律法

男女の服装に関するモーゼの掟が、実際に、キリスト教徒に対する権威を発揮するのかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれました。その際、モーゼの道徳律はすべて保持されましたが、民法や儀式律に対してはされませんでした。衣服に関する律法は、神学者たちは通常、時代遅れの儀式律法に属すると考えているものです。恐らくそれが、男装をし、聖体を拝領するという問題を取り上げた理由でしょう。聖体を持ち出すことで、彼女を 「冒涜 」の罪に問うことができたからです。

Image: The Trial of Joan of Arc, by Louis Maurice Boutet de Monvel 

Sources:

Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.

Gower, Ronald Sutherland, Lord. Joan of Arc. London: J.C. 1893.

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