聖ジャンヌ・ダルク: 悲劇への序曲(2)

私が信頼していた親友、
私のパンを食べたかれでさえ、私に向かってかかとを上げた。

-詩篇41:9(ドン・ボスコ社)

民衆はジャンヌを崇拝し、彼女がもたらした勝利と平和に酔いしれていました。そのような熱狂的な民衆とは対照的に、フランスの貴族や軍司令官の中にはジョアンに嫉妬を抱く者たちがいました。詩篇41篇10節にあるように、ジャンヌの本当の敵は味方の中にいたのです。

赤いドレスの贈り物と予知

ランスに向かう途中、シャロンの近くで、ジャンヌはドムレミ村からやってきた友人たちと会いました。彼らとつかの間の楽しい時間を過ごしたジャンヌは、赤いドレスを贈られました。そこでジャンヌは、彼女を待ち受ける悲劇的な運命を予感させるような言葉を口にしています。彼女は二人の旧友に、将来への唯一の不安は裏切りであることを告げたのです。(Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)

ジャンヌはただ単に、自分の運命についての漠然とした不安を、古い友に語っただけなのでしょうか。それとも、神から何らかの警告を受けていたのでしょうか?偶然かもしれませんが、彼女が友人から送られたドレスの赤は、殉教者の典礼色です。神の導きに最後まで従い、火刑に処された彼女の死を象徴していたかのようです。
いずれにしろ、この小さなエピソードは、コンピエーニュで起こる悲劇を予知していたのです。

1429年7月17日:王の戴冠式-神の預言の成就

ジャンヌが王に告げた、神の意志は成就されました。シャルル7世はついに、国王に即位したのです。

王はオルレアンの乙女を右手に従え、ランス大聖堂に入りました。王太子はサン=レミーの古い修道院教会の聖油で油を注がれ、フランス王となったのです。ジャンヌは戴冠式の間、旗をもち、王のそばに立っていたと言われています。

IV. Le sacre de Charles VII: V. “Te deum”

戴冠式において、王のそばで旗をもつことは伝統的マナーではありませんでした。王がこの慣例に反することを許可したことは、ジャンヌの功績に感謝していることを明らかにしています。

ジャンヌは戴冠式が終わると、ひざまずき、王の足を抱きしめると、以下のように告げたことが知られています。

「気高い王よ、今こそ神のご意思が成就しました。神は、私がオルレアンの包囲を解き、あなたをこのランスの町にお連れし、聖なる戴冠式をお受けになることで、あなたが真の王であり、フランスの王位を受け継ぐ者であることをお示しになっているのです」

この言葉を聞いて、(国王を除く)その場に居合わせたすべての人々が涙を流したと言われています。ジャンヌの言葉から、彼女には傲慢さがなく、王の栄光を自分の手柄にしようとしなかったことが理解できます。

ジャンヌの願った永遠の安息の地

「私が死んだら、この善良で敬虔な人々の中に埋葬されたいのです」と彼女は言った。「でも、神様が私を故郷に、妹や弟たちのもとに帰らせてくださるなら、どんなに嬉しいことでしょう!とにかく、私は救い主に命じられたことをしたのです」( Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)

戴冠式は成功しました。そのような華やな式典にもかかわらず、なぜか彼女は、自分の将来を、予感していたかのような言葉を大司教に残しています。

ジャンヌは自分の死と埋葬について話していました。このとき、彼女はまだ10代です。そのような年齢で、自分が死んだらどこに埋葬されるかを気にしていたのは不自然に思えます。彼女は続けて、神から託された使命を果たしたことを明らかにしています。

シャルル7世はジャンヌの功績をたたえ、彼女とその家族を貴族にし、紋章と金銭的報酬を与えました。ジェレミー・アダムス博士によれば、戴冠式の後、国王はジャンヌの仕事は完遂されたと宣言し、田舎に戻るよう求めたそうです。使命を果たした彼女は、生まれ故郷のドムレミ村に戻り、そこで修道女として神に仕えながら静かに暮らすこともできたでしょう。しかし実際には、彼女は別の道を選んだのです。

1430年4月: パリ奪還の失敗

ジャンヌは、フランスの未来の安全を維持するために、パリを奪還しなければならないと考えていました。ところが、パリの人々はすでにイギリスのヘンリー6世に忠誠を誓っていました。そのため民衆は、フランス王がパリを支配すると報復を受けるのではないかと恐れ、城壁都市パリの守りを固めていたのです。

残念ながら、ジャンヌの兵力はパリのような、強固な城壁と塔を持つ場所を攻撃するには不十分でした。優柔不断なシャルル7世がようやく兵を増派し、ジャンヌは攻撃を開始しますが、パリを奪還することはできなかったのです。

この時、ジャンヌはクロスボウの矢で、大腿部に深い傷を負いましたが、戦場に残りつづけていました。結局、彼女の意に反し、退却せざるを得ませんでしたが、攻撃を続けていれば勝利していたに違いないと抗議していたそうです。

二人の敵-いつわりの口、いつわりの右手

7.上から、み手をのべ、

大水から、罪深い剣から、私を救い出されよ。

異邦の子らの手から、私を解かれよ。

8.かれらの口は、いつわりを語り、

その右手は、いつわりの誓い。

-詩編14:7-8(ドン・ボスコ社)

ジャンヌのパリ奪還の失敗は、味方のふりをした敵を喜ばせました。特に二人の敵、ランス大司教とジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユ(1382年頃~1446年5月6日)は、すべての責任をジャンヌに押し付けるよう王に働きかけました。その結果、国王はランス大司教に、ジャンヌの意向に反してイングランドと停戦協定を結ぶことを許可したのです。

レニョー・ド・シャルトル(Regnault de Chartres 1380-1444)

ランスの大司教レニョー・ド・シャルトルは、ジャヌから戴冠式の時に、不吉な予感を感じさせる言葉を聞いた人物です。ジャンヌは、まさか彼が敵である、とは思わなかったはずです。

彼女から埋葬場所の願いを聞いた大司教は、どのように答えたのでしょうか。誰も知りません。しかし大司教はジャンヌが捕らえられた時に、神の正義の証明である、と大喜びとしたといわれています。ジャンヌ捕縛の知らせを、ランス市民に伝えたのは彼ですが、ジャンヌは高慢であり、神よりも自分の意志に従おうとしたことで神の怒りをかったと伝えています。

ジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユ(Georges de La Trémoille 1382-1446)

ジャンヌのもう一人の宿敵は、ジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユという貴族です。彼はジャンヌの忠実な騎士で、後に殺人犯として知られるようになったジル・ド・レと遠縁の関係にあります。ラ・トレモアイユはその抜け目のなさから、シャルル7世に大きな影響を与えた人物でした。彼の残酷性は、彼の金銭的利益と地位のため、シャルル7世の寵愛を受けていたピエール・ド・ジャックを誘拐し、溺死させたことからも理解できます。

彼は国王をランスに行かせないために、あらゆる手を尽くしました。また、さまざまな場面でジャンヌを妨害し、彼女が再びパリを攻撃しようとしたときにも阻止しています。後にジャンヌが捕われた時、王が釈放を得られなかったのも、彼の影響力だと言われています。

声がつげたジャンヌの暗い運命

ジャンヌの声はもはやかつてのように、明確な命令を与えることありませんでしたが、彼女はフランスを救うために戦い続けていました。

1430年4月初旬、復活祭の週にムランの町にいたジャンヌに、聖カタリナと聖マルガリタが、語りかけました。彼らはジャンヌに、聖ヨハネの日(6月24日)の前に捕虜になるが恐れるなと告げています。彼女は聖人たちに、捕虜になったらすぐに死ねるようにと願ったと伝えられています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)

この出来事があった後に、ジャンヌはラニーの戦いに赴きます。捕虜になるかもしれない、という恐怖さえ、フランスを救うという彼女の燃えるような心を変えることはなかったのです。(.Joan of Arc | Biography, Death, Accomplishments, & Facts | Britannica

1430年4月 ラニー=スル=マルヌの戦い: 斬首された男

イギリス側のブルゴーニュ軍は、パリの防衛を強化するため、アラスに大軍を集結させていました。ブルゴーニュの軍隊は、アラスのフランケに率いられ、ラニーに向かっていました。けれども、彼らはラニーに向かう途中、別の都市を略奪しています。その結果、その知らせを受けたフランス軍は、彼らが向かってくることを知り、戦いに備えることができたのです。

ラニーにいた兵士たち、フランス軍の援軍、そしてジャンヌたちの努力のおかげで、アラスのフランケは捕らえられ、彼の部下たちは殺されるか捕虜となりました。フランケはその後、ジャンヌが欲しがっていた捕虜と交換されるはずでしたが、その捕虜はすでに死んでいたことが判明します。さらに、アラスのフランケは略奪だけでなく、殺人の罪も犯していたことが裁判で明らかになりました。彼をどうするかと問われたジャンヌは、部下たちに「正義が求めるままに、この男をしなさい」と告げたと言われています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)

人の罪を憐れむ神の愛

ジャンヌは、正義が求める罰について、具体的なことは述べてません。フランケの刑罰は、斬首でした。後にフランケの斬首は、ジャンヌの運命を決定付ける要因となってしまいます。異端審問は、ジャンヌがフランケ斬首の責任があるとし、それが彼女の火刑の理由の一つとなったからです。

フランケの処刑は、正当だったのでしょうか。フランケは陪審員によって裁かれ、殺人罪で有罪となりました。他方、捕虜として、彼にはいくつかの権利が与えられていました。その中には、彼の属する領土で、裁きを受ける権利の可能性も含まれていました。しかし、この権利については、当時明確ではなかったのです。

聖書には、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)とあります。

神の目から見て、ジャンヌがフランケの斬首に対して、どれほどの責任を負っていたかはわかりません。けれども、キリストが私たち罪人を憐れんでくださったように、彼女がフランケを憐れんでいたなら、フランケにも生き延びるチャンスがあったのかもしれません。

1430年5月23日 :コンピエーニュ包囲戦で捕らえられたジャンヌ

The Capture of Joan of Arc, ca. 1850 by Adolphe Alexandre Dillens

ジャンヌ最後の戦いは、聖霊降臨祭の日のコンピエーニュ包囲戦でした。理論的には、聖霊降臨祭のような大祭、そして日曜日に戦闘を行うことは「神の平和と休戦」によって禁じられていました。しかし、すでに15世紀には、「神の平和と休戦」は、ほとんど無視されるようになっていたのです。(このテーマを調べているうちに、15世紀半ばには、すでに世俗主義の精神が、これほどまでに広まっていたことを知り、驚いたことを付け加えておきます)おそらくジャンヌは、聖霊降臨の祭日でも、軍を戦わせるつもりだったのかもしれません。もしくは兵士がどうしても、戦うと主張したのかもしれません。ジャンヌがなぜ、この日に戦いに行くことを決意したのか、私たちに知るすべはありません。

ともあれ、ジャンヌは500〜600騎の騎兵と歩兵を率いて、ブルゴーニュ公を攻撃しました。戦いの最中、ジャンヌは弓兵に馬から引きずり降ろされ、ブルゴーニュ軍の捕虜となってしまいます。イギリスとブルゴーニュは、500人の兵士を捕らえたことよりも、ジャンヌを捕らえたことを喜んだと言われています。( The campaigns of Joan of Arc, according to the Chronicles of Enguerrand de Monstrelet (deremilitari.org))

イギリスに売られたジャンヌ

捕らえられたジャンヌは、ジャン2世・ド・リュクサンブール(1392-1441)の後見人の下に置かれました。リュクサンブールのドゥモワゼル(未婚女性)と知られた、彼の叔母(ジャンヌ・ド・リュクサンブール)は、ジャンヌに同情的で、彼女をイギリスに売ることに反対していました。

彼女がジャンヌに同情的だったのは、ジャンヌ同様、彼女も非常に敬虔だったからと思われます。ジャンヌにとり不幸だったのは、1430年、ドゥモワゼルはアビニョンへ、弟の墓詣に行き、同地で死去してしまったことです。

ドゥモワゼルの弟ピエール・ド・リュクサンブールは、1387年に亡くなるまでアヴィニョンの枢機卿を務めており、聖人と見なす人もいました。1527年、ピエール・ド・リュクサンブールは、教皇クレメンス7世によって列福されています。

伯母の死後、相続の心配がなくなったジャン2世は、身代金と引き換えにジャンヌをイギリスに売り渡しました。伯母の遺言である、ジャンヌを売り渡さないことを条件にした財産贈与の条件を無視したのです。こうしてジャン2世は、莫大な財産を手にしましたが、翌年、あっけなく亡くなっています。

ジャンヌは、国王シャルル7世の戴冠式まで、次々と幸運に恵まれ成功してきました。ですがその後の彼女の人生には、暗い影が落とされました。ジャンヌは幾度も、自由になるべきチャンスがありながら、何度も何度も裏切られたのです。

Image: Joan in Reims Cathedral by Jules-Eugène Lenepveu

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