イエスの聖心の祝日

聖心の祝日おめでとうございます。

イエスの聖心の祝日は、聖体の祝日の次の金曜日に祝われます。

イエスの聖心の祝日は、17世紀にフランスの幻視者であり修道女であった聖マルガリタ・マリア・アラコクが、神の啓示を受けたことからはじまっています。2000年の教会の歴史の中では比較的新しい祝日ですが、バチカンによるいくつかの承認を経て、現在では教会の暦の中で最も大切な祝日のひとつとされています。

イエスの聖心:肉と霊

カトリック聖務日課集は、カトリックの祈り、詩編、朗読(聖書など)そしてカトリックの祝日や典礼に従って編集されている本です。聖務日課集は、西方教会のすべての司祭・修道女が伝統的に毎日使用しているものでした。(もちろん、ラテン語で書かれています。)その伝統的聖務日課集を、原文のラテン語から美しい英語に翻訳され、ある典礼財団から「聖務日課集-英語版㊟」として英国教会が出版しています。そしてイエスの聖心について、カトリック神学に基づいた説明が加えられ、大変わかりやすい解説が書かれています。以下は、その解説の概要となります。㊟ バチカンによっての承認はありません。

イエスの聖心はいつはじまったのか?-カトリック聖務日課集より


イエスの聖心への献身がいつ始まったかについての記録はありませんが、それが古い伝統であることは間違いありません。この献身は、初代教会ですでに(少なくとも、赤子のような状態で)存在したことは明らかです。以下は、聖務日課集の簡単な要約になります。

例えば神(イエス)の愛についてですが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)あります。三位一体の概念があるため、神の愛はイエスの愛でもあります。

またパウロの手紙は、神の愛と慈悲にふれています。

8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 (ローマ人への手紙5:8)

聖マルガリタ・マリアに現れたイエスの姿は、受難をうけ傷ついたイエスのこころと姿も象徴しています。このイエスの受難とイエスの受けた傷についての信心も、初期教会時代にはじまっています。

イエスの愛だけでなく、イエスの受難の傷も、初代教会では黙想と献身の対象となり始めていました。パウロの手紙には、以下のように書かれています。

7これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。(ガラテヤ6:17)

「イエスの焼き印」とありますが、これは伝統的に聖痕のことだと解釈されています。

4世紀の聖人、聖アウグスティヌス聖ヨハネ・クリソストモス(金口イオアン)は、十字架にかけられたキリストとアダムを比較しています。アダムが眠り、脇腹からエバがとられたように、十字架にかけられたキリストは死の間「眠り」ながら、槍で脇を貫かれ、血と水が流れ出し、教会を誕生させたと説明しています。

イエスの聖心についての解説

私たちの主は、「わたしは心の柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい㊟」(マタイ11:29)(ドン・ボスコ社訳)と教えています。イエスの言葉のなかで「心」が使われていることから、イエスの聖心という概念は、イエスの時代にすでに存在していたと理解できます。

㊟新共同訳には「心」という言葉は入っていません。英語訳には “I am humble and gentle at heart”とあるようにHeart(心臓、心)の言葉が使われています。

聖書の言葉において、心臓は感情だけでなく、人間の内面や精神生活全体を象徴しています。ですから、イエスの心臓は、イエスの愛、慈しみ、知恵なども象徴しています。けれども、イエスの聖心は単なる象徴にとどまりません。

キリスト教信仰の基盤

キリスト教の信仰の基盤とは、紀元1世紀が始まる少し前、永遠の言葉である神が、肉体を持った人間になったということです。その人間は「イエス」と名付けられ、神であると同時に人であるからです。イエスの人間性を崇拝することは、神であるイエスの神性を崇拝することであり、両者は密接に結ばれています。言い換えるとイエスの聖心祭は、イエスの肉体、つまりイエスの体中に血液を送り出す心臓そのものを賛美し、礼拝することによって、神を賛美する日なのです。(ここまでが聖務日課集の要約となります)

キリスト教の興味深い部分は、霊である神を礼拝するだけではなく、イエス・キリストの肉体も礼拝することです。私の知る限り、一神教を主張しながらも、実際の肉体である心臓を崇拝の対象とする宗教はキリスト教だけです。イエスの聖心は、人間には理解しがたい三位一体と深く関わる、神の神秘に満ちた祝祭なのです。

余談ですが、上記の「心臓」という言葉は、ギリシャ語でもヘブライ語でも、肉体の心臓を指します。さらに、肉体の心臓であるイエスの聖心礼拝をより深く理解するためには、父、子、聖霊の三位一体を知る必要があります。三位一体については、私には説明できませんので、ここでは割愛します。興味のある方は、小教区の司祭にお尋ねください。

イエスの聖心と12の約束

Chanted Litany of the Sacred Heart of Jesus in Latin | Litaniae Sacri Cordis Iesu (English Captions)

イエスは聖マルガリタ・マリア・アラコクに、イエスの聖心を信じる者に12の約束をされています。イエスの聖心への帰依を広めた聖マルガリタ・マリアは、聖刻を制定し、毎月第一金曜日に、地面にひれ伏して祈り、キリストの悲しみをわかちあいその日のうちに聖体拝領を行っていたと言われています。聖マルガリタ・マリアが第一金曜日に聖体拝領したように、イエスの聖心の信心は、9ヶ月連続で、毎月第一金曜日のミサに参加することです。以下は、前の述べた12の約束となります。(英語訳から、できるだけ英語のもつニュアンスで、翻訳したものです。教会公式翻訳を知りたい方は、こちらのいつくしみセンター公式センターをご覧ください

  1. わたしは彼らの人生に必要なすべての恵みをあたえる。
  2. わたしは彼らの家族に平和を与える。
  3. わたしは彼らのすべての悩みを慰める。
  4. 彼らはわたしの心の中に、生きている間も、特に死の間際で、確かな避難所を見出すであろう。
  5. わたしは、彼らがしているすべての活動に豊かな祝福を注ぐ。
  6. 罪人は私の心の中に、慈悲の(泉の)源と慈悲の無限の海を見出すであろう。
  7. 生ぬるい魂はあつくなる。
  8. 熱心な魂は、速やかに偉大な完成に至るであろう。
  9. 私は、私の聖心の姿が目にみえるところに掲げられ、尊ばれる家庭を祝福する。
  10. 私は司祭に、最も硬い心に触れる力を与える。
  11. この献身を広める者は、私の心にその名が記され、決して消えることはない。
  12. 連続して9ヶ月、最初の金曜日に聖体拝領するすべての者に、私の心の全能の愛は、彼らに最後の痛恨の恵みを与える。彼らは私の機嫌をそこない、秘跡を受けずに死ぬことはない。私の心は、最後の時に彼らの確実な避難場所となる。

12 Promises from the Sacred Heart of Jesus (catholicexchange.com) 

イエスの聖心に信心したJFKにあたえられた神の慈悲

アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、その悲劇的な死で有名です。しかし、彼の死に際にイエスの聖心の慈悲があったことは、ほとんど知られていないのではないでしょうか。ジョン・F・ケネディはカトリックの初代大統領ですが、スキャンダラスな彼の私生活知ると明らかなように、それほど敬虔なカトリック信者ではありませんでした。しかし、彼がまだ若かった頃、彼の母親は、イエスの聖心の献身である「9回の初金曜日の献身」の信心を行うようにさせていたと言われています。(12 Promises of the Sacred Heart of Jesus: Peace in Home and Life – YouTube)

1963年11月22日、ケネディ大統領が狙撃されました。彼は大急ぎで、近くの病院に運ばれました。そのケネディが運ばれた病院では、偶然にも、司祭が他の患者を見舞うためにいたのです。その司祭が偶然居合わせたことで、司祭は、瀕死のケネディに最後の秘跡を授けることができたのです。 (Could We Save JFK Today? | MedPage Today)

ケネディが病院に運ばれたとき、「大統領は無反応で、ゆっくりとした死戦期呼吸(心配停止直後にみられることがある呼吸)があり、触知できる脈や血圧もなかった」(Could We Save JFK Today? | MedPage Today)とあります。魂が肉体を離れるタイミングは、誰にも正確にはわかりません。しかし、私は、ケネディの魂はまだ肉体の中にあり、不思議な偶然によってイエスの聖心が約束した、最後の秘跡を受けることができたのではと思います。このような話を知るたびに、マザーTが書き留めた 「人の目には偶然でも、神の目には必然である 」という言葉を思い出します。

聖マルガリタ・マリア・アラコク:聖体のパンの中に隠されたイエス

 聖マルガリタ・マリアは、イエスの聖心を含む聖体パンを拝領することの重要性を強調しています。

「イエスは聖体の秘跡の中に見出されます。その秘跡の中で、イエスは愛によって生贄のように縛られ、父の栄光と私たちの救いのために常に犠牲となる用意ができているのです。イエスの生涯は、この世の目から完全に隠されているのです。彼らの目は、パンとぶどう酒の貧しく目立たない姿だけを見ることしかできないのです。イエスはつねに、祝福をされた聖体のなかに一人でおられます。私たちの敵である悪魔に大きな喜びを与えないよう、聖体パンの拝領をする機会を逃すことなく聖体拝領を行うようにしてください」-   聖マルガリタ・マリア・アラコク (See: MIRACLES-Mystics panels (santuariodesanjose.com))

聖体パンは、イエスの聖心を抜きにして語ることはできません。聖体パンはイエスの御身であり、心臓はその体の中心的で不可欠な部分であるからです。心臓がなければ、身体は生きることも、身体として機能することもできません。

6月には、多くの神秘的な祝祭日があります。聖体パンの祝日と聖心の祭日は、その中でも特に重要なものです。これらの祝祭日を祝うたびに、私はカトリック教徒であることをとても幸せに感じています。

Image: Two Angels with the Sacred Heart in Stained Glass

Source: The Anglican Breviary, Containing the Divine Office According to the General Usages of the Western Church, Put into English in Accordance with the Book of Common Prayer. New York, Frank Gavin Liturgical Foundation, Inc. 1955.