ご聖体の祝日:主イエス・キリストの至聖なる御身と御血

ご聖体の祝日おめでとうございます。

カトリックでは、今日(聖霊降臨後第2日曜日)は、主キリストの御身と御血であるご聖体(聖体パン)を祝う日です。私たちの地元の司祭の聖体降臨祭の説教の中では、カトリックとプロテスタントの主流派との間には、「教皇」と「ご聖体」という二つの大きな違いがあると指摘しています。私たちカトリックは、教皇は神が創った唯一無二の教会における、キリストの代理人であり、司祭によって聖別されたご聖体はイエスの御身であると信じているからです。

神からの啓示ではじまった聖体の祝日

リエージュのユリアナ(1192年頃-1258年4月)は、13世紀の修道女であり、神秘主義者でした。ユリアナは孤児で、5歳のころに修道院に預けられます。修道院での生活は、ユリアナにご聖体に対する特別な畏敬の念を、抱かせるようになります。

1208年、修道女ユリアナにイエスが現れ、ご聖体を祝うための新しい典礼の祝日を、請願するよう告げます。しかしユリアナは、その幻視をすぐには長上には打ち明けず秘密にしていました。その後20年間、同じ幻視が続き、彼女の告解を聞いた司祭によって、ようやくリエージュの司教に伝えられることとなります。ユリアナ自身もドミニコ会と司教に、ご聖体の祝日を願い手紙を送りました

1246年、ユリアナの手紙を受け取った司教は、リエージュの教区でご聖体の祝日を制定しました。同教区のジャック・パンタレオン助司祭は、この新しい祝祭を非常に感動的なものと感じ、正式な教会暦に加えることは極めて大切である、と考えました。

1264年、ジャック・パンタレオン助司祭はローマ教皇ウルバヌス4世(c. 1195 – 2 October 1264) となり、同年、ご聖体祝日の日を全教会の祝日として制定したのです。

ご聖体の祝日の典礼の作者:聖トマス・アクィナス(1225-1274)

ご聖体の祝日が制定されたとき、ウルバヌス4世はトマス・アクィナスに、新しい祝日の祈りとミサ典礼の作成を依頼しました。トマス・アクィナスが、この日のために書いた賛美歌のひとつ「アドロ・テ・デボーテ」には、メロディが与えられ、今日までご聖体の祝日のミサで歌い続けられています。

Adoro Te Devote, Sisters of Aquinas -Sisters of Aquinas

アドロ・テ・デボーテ(Adoro Te Devote)

パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられる神よ、謹んで御身を礼拝いたします。

御身を見つめながらも全く見通す力のない私は、心のすべてを委ねます。

今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、御身を認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。

神の御子の言われたことは、何事であれ信じます。この真理の言葉にまさるまものは、世にないからです。

十字架上では神の本性だけが隠れていましたが、ここではその人性も隠されています。

主にある二つの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことを私もお願いします。

私はトマのように御傷を見なくても、御身が私の主であることを宣言します。

どうか、私がますます深く御身を信じ、御身に希望し、御身を愛することができますように。

主のご死去の記念として、人に命を与える生きたパン。

私の心を御身によって生かし、甘美な御身を常に味わわせてください。

優しいペリカン、主イエス、どうか、汚れた私を、御血をもって清めてください。

御血の一滴だけで、世のすべての罪を償うことのできる御方。

今は隠れていますイエス、乾き望むものをお与えください。

覆いを取られた御身の顔を見出し、御身の栄光を目にする幸いな者となりますように。アーメン。

St. Thomas Aquinas.  (出典:使徒聖ヨハネカトリック小金井教会)

ご聖体パンの神秘:実体変化

聖書の中で、イエスは「いのちのパン」であるご聖体について、ご自分の体と血であると語っています。使徒たちにとって、イエスの言葉は最初は理解しがたいものでした。そして復活後に初めて、イエスの言葉の意味を知ったのです。

ご聖体がキリストの御身(体)になる、と信じるのはカトリック教会と東方正教会の教えです。けれども、東方正教会の教えでは神の神秘は理解できない、とされています。では、西方教会、すなわちカトリック教会の教えでは、ご聖体の神秘はどのように説明されているのでしょうか。

イエスの御身であるご聖体

26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイ26:26)

カトリック教会の教えでは、ミサで司祭が「これは私の体である」とキリストの言葉を語るとき、司祭の言葉を通して語っているのは、言葉であるキリストです。司祭が語ったその瞬間、神の言葉は司祭を通し実現されます。そして祭壇のパンはイエス・キリストの御身、御血、霊魂、神性になると信じられています。

この神秘は、神学者たちによって、議論されてきました。そして、アリストテレス哲学を用いて、「実体変化」と定義されてきました。この「実体変化」を理解するためには、アリストテレス的な 「実体」と 「偶性」というカテゴリーで考える必要があります。簡単に言うと、「実体」 はあるものが何であるかを示す名詞で、「偶性」はそのものを形容する形容詞となります。

祭壇のパンの場合、聖別前のパンは「薄く、白く、丸い、パン風味のパン」であると言えます。この場合の実体は名詞の「パン」であり、偶性は形容詞の「薄い、白い、丸い、パン風味」、その他パンを表現するのに使われる、あらゆる形容詞となります。実体変化とは、実体が変化することであり、偶性は変化しないということです。ですから、聖別後のパンは、「薄く、白く、丸く、パン風味のキリストの体 」となるのです。

この実体変化という神秘のおかげで、私たちがミサで口にするご聖体は、血のついた肉片ではない、ということになります。

命のパンで決して飢えない

35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

キリスト教についてほとんど知らなかった私が、数ある教派の中でカトリックに強く惹かれたのは、カトリックの秘跡の一つである「ご聖体」でした。カトリック教会でご聖体拝領を受ける信者の姿を見て、ご聖体を受けたいと思うようになったからです。けれども洗礼を受けるために教会の聖書講座に通い始め、洗礼の準備に数ヶ月かかると知り、本当にがっかりしました。お腹が空いているのに、食べ物がないまま放置されたような気分になったからです。その後、洗礼を受け、ご聖体をさずかり、身も心も不思議と満たされたような気がしました。

それ以来、洗礼前のような飢えを感じることはなくなりましたが、パンデミックの時、教会が一般信徒のためのミサを祝わなくなり、以前感じていたような飢えを感じるようになりました。正直なところ、オンラインミサは、実際のミサに参加するより楽で喜んでいました。しかし、その時、言葉で説明するのが難しい飢えが戻ってきたのです。ご聖体の神秘に対する私の信仰は、当初は深いものではありませんでしたが、精神的な飢えを感じるようになったとき、ご聖体が私の心身をどれほど満たしてくれていたかを初めて実感したのです。

大切なご聖体を拝領するために

カトリックでは、ミサと聖体の重要性を強調しています。

聖 ピオは、「ミサがないよりは、太陽がない方が世界が存在しやすい 」と言うほど、ミサと聖餐式を愛していました。パドレ・ピオの例は、ご聖体がいかに重要であるかを示しています。数多くのカトリックの著者であるボブ・ロードとペニー・ロードはパドレ・ピオについて以下のように書いています。

「ピオ神父は…ご聖体における私たちの主イエスと生涯にわたって愛を育んでいたのです。彼にとって、ご聖体はすべての霊的恩恵の中心でした。それは魂の生命の息吹であったのです。… 司祭叙階後、彼はミサの奉献に長い時間をかけ、パンとぶどう酒が主イエスの御身と御血となるのを前に恍惚とした表情で時間を過ごすことに教区民から苦情が出るほどでした。」(Saint Padre Pio – devoted to the Eucharist and Mary

私たちはおそらく、ピオ神父のようにミサで主の受難を見ることはできませんが、彼の経験は、ミサが単なる儀式ではない、非常に大きな超自然的な出来事であることを教えてくれています。聖グレゴリウス1世もミサ中に、主の受難を目撃したと言われており、聖別された聖体パンが、イエスの体であることを明確に示すご聖体の奇跡は数多く存在しています。

私の教区の司祭は説教の中で、ご聖体を拝領する前に告解する必要性を強調しています。さらにご聖体に対する信仰の必要性については、「信じていないのなら、ご聖体を拝領してはいけない」と言われました。また、何世紀にもわたって行われてきたように、ご聖体を舌で受けることを推奨し、どうしても手で受けたいという人には「受けたらできるだけ早くご聖体拝領してください」と呼びかけました。最後に、ご聖体拝領の後に、感謝の祈りを捧げることを忘れないようにと、アドバイスしています。

ご聖体への祈りーパドレ・ピオ

パドレ・ピオはご聖体を拝領した後、感謝をささげ以下のように祈っています。

主よ、私と共にいてください。私は弱く、あなたのお力が必要です。

主よ、私と共にいてください。あなたは私の命であり、あなたがいなければ、私には意味も希望もありません。

主よ、私と共にいてください。あなたは私の光であり、あなたがいなければ、私は暗闇の中にいるのです。

主よ、私と共にいてください。あなたの意志をお見せください。

主よ、私と共にいてください。私があなたのお声を聞き、あなたに従うことができますように。

主よ、私と共にいてください。私はあなたをさらに愛し、いつもあなたと共にありたいと願うのです。

主よ、私と共にいてください、もし私がいつもあなたに忠実であることをお望みでしたら。

主よ、私と共にいてください。私の魂が貧しくとも、それがあなたの慰めの場となり、あなたの愛の住まいになるようにと願うからです。

イエスよ、私と共にいてください。日が暮れ、人生が過ぎ去ろうとしています。死と裁きと永遠が近づいています。途中で立ち止まることがないよう、私の力を新たにする必要があるのです。時が遅くなり、死が近づいています。ですから私には、あなたのお力が必要なのです。私は暗闇を恐れ、誘惑を恐れ、乾きを恐れ、十字架を恐れ、悲しみを恐れています。私のイエスよ、この流浪の夜に、私はどれほどあなたを必要としていることでしょう!

イエスよ、私と共にいてください。あらゆる危険を伴う人生の暗闇の中で、私はあなたを必要としているのです。

あなたの弟子たちがパンを裂くとき、そうであったように、私があなただと悟ることができますようお助けください。ご聖体拝領が闇を払いのける光となり、私を支える力となり、私の心の唯一の喜びとなりますように。

主よ、私と共にいてください。死の間際、私はあなたと一つになりたいのです。もし、ご聖体を拝領できないのなら、せめてあなたの愛と恩恵のなかにいさせてください。

イエスよ、私のそばにいてください。私は神の慰めを求めておりません。なぜなら私はそれに値しないからです。あなたが共に存在しておられるという贈り物だけを願うのです。そうです!私はあなたにこれを求めます。

主よ、私と共にいてください、私はあなたと、あなたの愛、あなたの恩恵、あなたの御意志、あなたの御心、あなたの霊だけを探し求めているからです。私はあなたを愛し、あなたをますます愛すること以外、いかなる報いも求めておりません。

私が地上にいる間、心を尽くしてあなたを愛し、永遠にあなたを完全に愛し続けることができますよう、お与えください、親愛なるイエスよ。

Padre Pio prayed this prayer after receiving Holy Communion from Aleteia より抜粋)

あなたの聖体の祝日と聖体の祝日の一週間が、神の恵みで満たされますように。

image: Eucharist, painting on the church altar