聖母マリアの七つの悲しみの祝日

9月15日は御子イエスの生涯から、七つの悲しみを受けた、聖母マリアの悲しみの祝日です。この日は得に、聖母の悲しみに心を合わせ祈ります。

悲しみの聖母マリアへの献身の始まり

カトリックにはこの祝日が、教会で正式にはじまる以前より、「悲しみの聖母マリア」に祈る伝統と習慣がありました。

1221年ドイツにあるシェーナウ修道院で、はじめて悲しみのマリアの祭壇が設置されました。同じ頃、フランシスコ修道会により、悲しみのマリアへのグレゴリアン賛歌「スターバト・マーテル」作曲されています。

Sequentia: Stabat Mater

セルヴィト修道会と悲しみの聖母

1233年頃のイタリアで、七人の貴族の息子がフィレンツェを去り、セナリオ山に向かいました。七人は、そこで隠遁生活をはじめます。彼らの霊性は、彼らのような生活を望む多くの人々をひきつけ、セルヴィト修道会が誕生します。正式には「聖母マリアのしもべ達」として知られる彼らの修道会は、特にマリアの悲しみに捧げられました。そのマリアへの献身を広めるために、彼らは「悲しみの聖母マリア」への祈りをはじめ、9月15日を悲しみの聖母の祝日としました。

悲しみの聖母への「七つの悲しみのチャップレット」

セルヴィト修道会が広める信心の一つに「七つの悲しみのチャップレット」があります。このチャップレットを祈るには、次のような悔い改めの祈りから始めます。(英語版と同じ教会正式翻訳が見つからなかったため、一般的に使用されている悔い改めの祈りを引用)

悔い改めの祈り

神よ、わたしは罪を犯し、悪を行い、
あなたに背きました。
御子イエス・キリストの救いの恵みによって、
わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。
救いの喜びを与え、あなたのいぶきを送って、
喜び仕える心を支えてください。
わたしはあなたの道を進みます。
アーメン。

そして、それぞれの悲しみに「主の祈り」を1回、「アヴェ・マリア」を七回唱えながら、7つの悲しみを黙想します。

  1. 老シメオンの預言によって悲しむ聖母
  2. 聖母はヨセフと幼子イエスとともにエジプトへ逃避する
  3. 幼子イエスをエルサレム神殿で見失う
  4. 十字架の道行きでのイエスとの出会い
  5. 聖母は十字架のもとにたたずむ
  6. イエスの亡骸を抱く聖母
  7. 聖母は墓に葬られたイエスを見る

最後に、聖母の涙を思い起こし、「アヴェ・マリア」の祈りを三回唱えます。

チャップレットの終わりに、次の祈りを加えるのが慣例となっています。(教会正式翻訳ではありません)

(先唱)最も悲しみ深き聖母よ、私たちのためにお祈りください。

(答唱)私たちが、キリストの約束にかなう者となりますように。

祈りましょう。

主イエス・キリストよ

今も、死の時も、あなたのあわれみの王座の前で

あなたの苦い受難の時に

悲しみの剣に刺し貫かれた

最も聖なる魂をもつ聖母マリアによる

私たちのための執り成しを願います。

世界の救い主である主

父と聖霊と共に終わりのない神であるイエス・キリストによって。

アーメン

18世紀以降の悲しみの聖母の祝日の変遷

1727年、教皇ベネディクト13世(在位1724-1730年)は、棕櫚の主日の前の金曜日に悲しみの聖母の祝日を制定し、教皇ベネディクト13世と教皇クレメンス12世(在位1730-1740年)はともに、信者に「七つの悲しみのチャップレット」を祈るよう勧めました。

1809年、教皇ピオ7世はナポレオンの捕虜となりました。1814年、自由を取り戻した教皇は、ローマに凱旋した後、9月15日を悲しみの聖母の第二の祝日とすることを宣言し、神に感謝を捧げました。9月15日は、9月14日の聖十字架昇架の祝日の翌日にあたり、この祝日にふさわしい日です。

こうして、毎年、春(聖金曜日)と秋(聖十字架の昇架)の二つの十字架の祝日がありました。それぞれの祝日には、主の十字架のもとに立つ聖母を表すために、悲しみの聖母の祝日がすぐ後に置かれていました。

1955年、教皇ピオ12世は、棕櫚の主日前の金曜日の祝日を廃止します。しかし、9月15日の祝日はそのままとされ、1969年に行われた大規模な典礼変更の後も、今日まで教会の暦に残されています。

悲しみの聖母とシドッティ司祭

1【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】

2神よ、わたしを憐れんでください。

わたしは人に踏みにじられています。

戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ

3陥れようとする者が

絶えることなくわたしを踏みにじります。

高くいます方よ

多くの者がわたしに戦いを挑みます。

4恐れをいだくとき

わたしはあなたに依り頼みます。

詩篇56:1-4

日本には、イタリアの画家が描いたとされる有名な「悲しみの聖母」の絵があります。通称 「親指の聖母」と呼ばれるこの絵は、日本で殉教した最後のイタリア人司祭、ジョバンニ・バッティスタ・シドッティが所有していました。

日本へ渡るためにサムライに変装したシドッティ司祭

シドッティ司祭は1668年、シチリアのパレルモに生まれました。聖職者の道を歩むことを決意した彼は、パレルモのイエズス会大学とサピエンツァ大学で哲学と神学の学位を得ます。

シドッティ司祭は、日本に多くの殉教者がいることを知り、宣教師として日本に行くことを決意します。教皇クレメンス11世から日本行きの許可を得たシドッティ司祭は、まず日本人居留地のあるマニラに向かいました。そこで日本語と日本の習慣を学び、日本の通貨を調達し、サムライに変装して日本に向かいました。

1708年10月11日、シドッティ司祭は屋久島に上陸することに成功しました。彼の黒い木綿の袋の中には、ミサの道具、十字架、わずかな身の回りの品の他に、「親指の聖母」の絵が入っていました。しかし彼は、上陸後すぐに発見されてしまいます。

捕らえられたシドッティ司祭は、400里(約1,571キロメートル)の道のりを籠に乗せられて江戸まで運ばれました。この長旅の間、彼の足は衰え、やっと江戸に到着したときには、立つことすらできなかったと伝えられています。

シドッティ司祭と新井白石との交流

江戸に到着したシドッティ司祭は、新井白石(1657-1725: 旗本・政治家・朱子学者)の尋問を受けました。その際、新井はシドッティの描いた聖母像の模写をし、「目はくぼんで、鼻筋が高く、うるわしき面体也」と書き添えています。

新井白石は司祭と話すうち、その人柄と教養に感銘を受ました。そして拷問などせず、茗荷谷(現在の東京都文京区小日向)の切支丹屋敷に軟禁することとします。新井はこの時のシドッティとの交流を、『西洋紀聞』1713年頃(せいようきぶん)、『采覧異言』1713-1725年(さいらんいげん)に記しています。

殉教を選んだシドッティ司祭

当時としては破格の待遇を受けていたシドッティ司祭ですが、宣教活動は厳しく禁じられていました。けれども彼は密かに、彼の身の回りを世話していた老夫婦、長介とおはるに洗礼を授けていました。その後、奉行所で木の十字架をつけた二人が発見され、洗礼を受けたことが明るみに出てしまいます。シドッティ司祭は、二人と共に地下の座敷牢に移されてしまいます。

1714年10月21日、シドッティ司祭は47歳で殉教しました。老夫婦も司祭と共に殉教しました。シドッティ司祭は死の直前まで、長介とおはるを励まし続けたと言われています。シドッティ司祭と老夫婦の遺骨は、キリシタンの屋敷裏門脇に埋葬されました。

イタリアの科学、文学、芸術の普及に貢献したジョヴァンニ・トレッカーニ研究所の記述には、座敷牢との関連はなく、三人が小さな穴に入れられ、腐臭が充満する穴の中に閉じ込められた、とされています。また、シドッティ司祭の死亡日については複数の異なる情報があることが記述されています。

「親指の聖母」の愛称で親しまれる日本の国宝

シドッティ司祭が所有していた、青いベールをかぶり、頬に小さな涙を浮かべた聖母の絵は、現在、東京の国立博物館に所蔵されています。

聖母は青いヴェールの下に紫の衣をまとっています。カトリックでは、紫は聖金曜日と四旬節の断食期に用いられる典礼色です。(一方、黒は死者の日と葬儀に用いられる)この絵で聖母が紫の衣をまとっているのは、御子イエスの苦しみ、そして全人類の罪と苦しみを悲しんでいることを暗示しています。

「親指の聖母」を描いた画家はカルロ・ドルチなのか?

カルロ・ドルチ(1616-1686)は生前、敬虔なカトリック信者として知られ、その宗教的熱意で、主題を情感豊かに描きました。日本にある「親指の聖母」は、その作風や構図がドルチの既知の作品と似ていることから、ドルチの作品である可能性が高いと一般に考えられています。

イタリア、ボルゲーゼ・ギャラリーにある、同じ名で呼ばれる「親指の聖母」の絵は、シドッティの聖母と酷似しており、ドルチ作と考えられている理由を裏付けています。それだけでなく、どちらの絵にも、悲しみの聖母に対する深い信仰と献身が感情的に表れています。

ただし、かつてシドッティ司祭が所有していたこの絵が、実際にカルロ・ドルチの作品であるかどうかは確定されていません。彼の娘で、同じく彼の工房で働いていたアニューゼ・ドルチ(1635-1686)の可能性もあるからです。彼女の作品はカルロと作風が非常に似ており、彼女の作品を特定することは難しいとされています。

発見されたシドッティ司祭の遺骨

最後のバテレン シドッチ神父へのレクイエム – YouTube
Yakushima Heart TV

2014年7月24日、サレジオ会修道士レナート・タッシナーリ氏によりすでに特定されていた東京都文京区の切支丹屋敷屋敷跡で、綿密な調査が行われました。その結果、現場から三体の人骨が発見されました。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、一体はイタリアのトスカーナ出身であることが判明します。さらに調査を進めたところ、この人物の身長は170cm以上であり、記録されているシドッティ司祭の身長、175.5-178.5cmとも一致、身元が確認されました。

この人物(シドッティ司祭)はキリスト教式に土葬されており、墓石には十字架の碑があったと報告されていました。国立科学博物館は、この頭蓋骨からシドッティ司祭の顔を復元に成功します。約300年の時を経て、日本の歴史に大きな影響を与えた宣教師の顔が明らかになったのです。(復元した顔は、上のビデオの23秒のところから見ることができます)

シドッティ司祭と二人の信徒の列副調査の開始

2019年、シドッティ司祭と二人の信徒、長助、おはるを、聖人とするため列副手続きが開始されました。列副調査には、マリオ・トルチヴィア司祭(Fr.Mario Torcivia)フランシスコ修道会のマリオ・カンドウィッチ司祭(Fr.Mario Canducci)、田中昇司祭が携わっています。

2019年の上智大学のシドッチ司祭のシンポジウムで、シドッティ司祭と同じパレルモ、シチリア出身のマリオ・トルチヴィア神父は、以下のように述べています。

「シドッティ神父は強い信仰にもとづき、日本の宣教活動を希望し、たとえ命に代えてもキリスト教を棄てないという覚悟でした.…(略)長助、はるが尊い殉教者として神の栄光のもとに導かれ この美しい国で人々に再び知られることを願っています」

歴史の再評価がすすむシドティ神父
Yakushima Heart TV

二人の信徒の洗礼に命をささげたシドッティ司祭

39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

-ヘブライ人への手紙 10:39

あるキリスト教徒ではない日本の方が私の知人に、シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けることを決めたのは残念だった、そうしなければ彼らの命は助かったのに、と話したそうです。長介とおはるへ同情的なこの意見は、シドッティ司祭が宣教師としての熱意のあまり、強引に洗礼を授けたのでは、という考えに基づいているのかもしれません。しかし、最後までキリストと教会に忠実だったシドッティ司祭には、そのようなことはなかったはずです。

カトリック教会における洗礼は、本人の自由意志に基づいて授けられるます。そのため、洗礼を望まない成人に洗礼を授けることは、教会法によって固く禁じられています。シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けたのは、彼らがそれを望んだからです。

新井白石の問いかけにシドッティ司祭は、「私はキリスト教を宣べ伝えるため、そして人々を助けるためにここに来ました 」と答えました。司祭として神から与えられた使命は、魂の救済です。その使命を果たすため、福音書にあるように、持ち物をすっかり売り払い(マタイ13:45、19:21)、弟子をつくり洗礼を授け(マタイ28:19)、命を捧げた(ヨハネ15:13)のです。

シドッティ司祭の生涯を研究しているマリオ・カンドヴィッチ氏は、シドッティ司祭について「長助とおはるに洗礼をさずけたことは大きな喜びであり、福音が伝えられる日が来るだろうと確信をもって、そのままいったのだろう(いった-恐らく殉教の意味)」と話しています。

剣に貫かれた聖母の心

34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2:34-35)

ヨハネパウロ2世は1984年2月11日の書簡、「SALVIFICI DOLORIS」のなかで、神は時に私たちが神をより深く知るために、悲しみを用いることがあると述べています。

聖母の悲しみの日の福音には、老シメオンが聖母に伝えた言葉があります(ルカ2:34-35)。そこでは人の心にある思いがあらわにされ、マリアの心が剣で刺し貫かれるとあります。シドッティ司祭、老夫婦の受難と殉教は、魂の救いであると同時に、聖母マリアの深い悲しみだったはずです。そして「親指の聖母」は、日本の罪深さに最も悲しんだはずです。

シドッティ記念教会

1988年2月14日、シドッティ司祭が上陸した岬にシドッティ記念教会(サンタ・マリア教会)が建設されました。この記念教会は、シドッティ司祭に感銘を受け、イタリアから屋久島に移り住んだ聖ザベリオ宣教会の故レンゾ・コンタリーニ司祭の働きで完成しました。教会内には「親指の聖母」をモチーフにしたステンドグラスが収められています。

東京目黒にあるサレジオ会のカトリック碑文谷教会も、シドッティ司祭の「親指の聖母」に由来し、「江戸のサンタ・マリア教会」として建設されました。ここには「親指の聖母」の絵のレプリカがあります。

いつの日か、シドッティ司祭の親指の聖母が教会に戻り、悲しみの聖母へのミサが捧げられることを祈ります。

Source: One version of the Chaplet of Seven Sorrows can be found at number 383 of the Pre-Vatican II “Raccoltà” or Manual of Indulgences (Sacra Paenitentiaria Apostolica. Enchiridion Indulgentiarum… Typis Polyglottis Vaticanis MCML: Versio Anglica. New York, Benziger Brothers. 1957.)

image: Mater Dolorosa by Carlo Dolci

聖ジャンヌ・ダルク:異端審問(3)

天の啓示を受けたジャンヌは、1429年にオルレアンを解放し、シャルル7世をフランス王に即位させました。しかし翌1430年、ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕らえられ、ルクセンブルク公ジャン2世の後見人のもとに置かれます。7月14日、ブルゴーニュ公は、イギリス王太子の名のもとに、ジャンヌを要求したボーヴェ司教、コーション(のちの異端審問裁判官)に、1万リーブル・トゥルノワで彼女を売り渡しました。

異端の罪に問われたジャンヌは、裁判にかけられることになります。ジャンヌが直面している戦いは、聖書にあるような「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの―エペソ6:12」となります。

ボールヴォワールの牢獄塔から飛び降りたジャンヌ

ジャンヌはボーレヴォワール城の塔に囚われていました。監禁中、彼女はコンピエーニュがイギリスに占領されようとしていること、イギリスが女性や子供を含むすべての民衆を虐殺しようとしていることを知ります。彼女は、コンピエーニュの救出に向かおうと、60フィート(約18メートル)の塔から脱出しようとしました。紐を何かにくくりつけ(紐をどうやって手に入れたのか、何にくくりつけたのかは不明)、窓から身を下ろし脱出しましたが、その途中で落下してしまいます。その高さにもかかわらず、彼女は一命を取り留め、塔の下で意識を失って倒れているところを発見されました。


ジャンヌは、それまでにも何度か脱走を試みていました。そのため、この脱走劇の後、さらに厳しい監視下に置かれるようになってしまいます。ジャンヌに現れる聖カタリナは,、彼女に語りかけ、行いを咎め、神の許しを請うように告げました。ジャンヌはその命に従い、司祭に告解をしています。聖カタリナはジャンヌに、イギリス軍がコンピエーニュを奪還できないだろうと告げましたが、やがてその通りになります。


裁判でジャンヌは、コンピエーニュでの大虐殺計画の知らせを聞いて、「善良な人々を破滅させてまで生き続けるくらいなら、死んだほうがましだ 」と感じたと語りました。異端審問官達はこの供述をもとに、彼女を自殺未遂で訴えったのです。

1万ポンド・トゥルノワの価値とは?

金銭を愛することは、すべての悪の根である(1 テモテへの手紙 6:10

ジャンヌが売られた金額の価値は、裁判記録にある彼女の鎧の値段を目安にして考えてみることができます。

あるウェブサイトによると、シャルル7世がジャンヌのために用意した鎧兜の値段は100エキュスで、2500ソル、125ポンド・トゥルノワに相当したとあります。

続けて「比較すると、この鎧兜は最も安価な装備品の2倍の値段でありながら、最も高価な装備品の8倍も安かったのです」と説明されています。(Suit of Armour | Joan of Arc | Jeanne-darc.info

単純計算すると、ブルゴーニュ公がコションから受け取った金額は、ジャンヌが装着していたような鎧80着分、あるいは当時作られていた最も高価な鎧10着分に相当するということになります。

ブルゴーニュ公爵は、この世で一時的な富を得ることを選択しました。彼が受け取った金貨は、ジャンヌの報酬であっただけではありません。それはこの世の神(Ⅱコリント4:4)である悪魔からの支払いだったのではないでしょうか。この世の富を支配するのは悪魔であり、天に富を積むことを教える神を裏切っているからです。

権力に執着したピエール・コーション司教

ボーヴェ司教、ピエール・コーションは、ジャンヌの異端審問裁判と火刑執行に関わった人物として名を残しました。1413年、不祥事を起こしパリから追放されるまで、イギリスからパリ大学でのポストを与えられています。記録によれば、彼は学識があり、野心に満ち、自分の邪魔をする者を徹底的に排除しようとする人物だったそうです。

Tombeau de Pierre Cauchon

ボーヴェはコーションの教区の中心都市でしたが、イギリス領とフランス領の国境近くに位置していたため、たびたび戦火に見舞われました。ブルゴーニュ公の側につき、最強の支援者となったコーションは、褒美としてボーヴェの教会を与えられました。その幸運に満足しなかったコーションは、ウィンチェスター家との結びつきを利用して、ルーアン教区も手に入れようとしていました。この時の彼の企ては失敗しています。けれどもそれで「諦めた」と、いうわけではなかったのです。

ジャンヌに鼓舞され率いられたフランス軍がオルレアンを解放したことは、ボーヴェにとって脅威となりました。実際、コーションはボーヴェからの逃亡を余儀なくされています。コーションは、ジャンヌの成功が自分の不幸であることを憎しみとともに理解していたのです。

ですから、偶然、コーションの教区で、ジャンヌが捕縛されたことは、彼にとり思いがけない幸運でした。イギリスは、ジャンヌに魔女の烙印を押し、シャルル7世が神によって選ばれた王でないことを証明したがっています。コーションは裁判官として、ジャンヌを魔女と断罪することができるのです。それだけではなく、イギリスの敵であるジャンヌ排除の成功で、念願のルーアン大司教になれる可能性も見えてきたのです。

美徳よりも悪徳を選んだコーション

コーションは学識ある聖職者でしたから、神の目から見て何が罪であるかを知らないはずがありません。それにもかかわらず、彼の富と地位への欲望はとどまるところを知りませんでした。聖書には、その様な人について「貪欲な目は、自分の持ち分に満足せず、蓄財に身を削るという悪は、魂を干からびさせる」(シラ14:9)と書かれています。

彼は司教でありながら、神の栄光よりも自身の満足を求めたことは明らかです。コーションは、ジャンヌの裁判以前から、真実の追求よりも賄賂を好んでいた人物として知られていたようです。コーションはブルゴーニュ公からジャンヌを買い取り、イギリスに売り渡しました。もし彼が、ジャンヌをイギリスに渡さなければ、少なくとも火刑に処されなかったに違いありません。

ジャンヌの死を待ち望んだベッドフォード公爵

Duke of Bedford by the British Library.

「英国人は百人の兵士よりもジャンヌ・ダルクを恐れ、彼女の名前そのものが敵の恐怖の源であった」(Fabré, Lucien. (Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.)

ジャンヌには多くの敵がいました。その最も強力な敵の一人である、ベッドフォード公爵は、誰よりもジャンヌのカリスマ性を認めていたようです。彼はジャンヌの死を、切望していました。ジャンヌのせいで、イギリス軍の士気は下がり、敵対していない都市でさえ反英感情が高まり、経済は大打撃を受けていたからです

ベッドフォードの忠実な共謀者であったコーションは、ジャンヌの素性を調査しましたが、魔女であることを突き止めることはできませんでした。ベッドフォードは、教会がジャンヌを火刑にすることができないのなら、自分に渡すべきだと要求しました。ある意味、この時すでに彼女の運命は決まってしまっていたのです。

華々しい経歴を誇るベットフォード公

ジャンヌの勝利が奇跡的であったのかは、敵であったベットフォード公を知ると、より明らかになります。ベットフォードは、戦闘経験もない田舎娘など問題にもならない、当時最も戦略に長けた軍人の一人であったからです。

ベットフォードの才能は、戦いだけでなく政治にも発揮されています。1415年、そして1417-19年にかけ、中尉としてイギリスの政務も担当しています。またヘンリー5世と共にイギリス王位継承権を認めるトロワ条約(1420年)を締結させました。また1424年、ヴェルヌイユでのスコットランドとフランスの争いに参戦、イギリスに勝利をもたらしています。

ベットフォードは、ジャンヌの火刑の後、ヘンリー6世がフランスで戴冠式を行えるよう手配をしています。1431年12月16日、ヘンリー6世はパリのノートルダムで戴冠式を行いました。けれどもイギリスに不利に傾いた状況は、その後も改善されることはありませんでした。1435年9月14日、ベットフォードはルーアンで死去、その一週間後に百年戦争は終結しました。

John, duke of Bedford – Wars of the Roses

なぜシャルル7世 はジャンヌを救おうとしなかったのか?

Charles VII

このような苦境にいるジャンヌを、王になったシャルルは、熱心に助けることはしませんでした。シャルルがジャンヌに無関心だったのは、政治的な抜け目のなさによるものなのか、それとも単なる恩知らずによるものなのか、歴史家の間でも意見が分かれています。

恐らくシャルルは、イギリスからジャンヌを取り戻そうとすることで、新たな戦争が始まる可能性を恐れたのかもしれません。あるいは、ラ・トレモイユのようなジャンヌの敵から、彼女を助けないよう吹き込まれたのかもしれません。シャルル王が喜んで支払った身代金は、ごく一般的な金額でした。シャルルは、多額の身代金を払いたくなかったと言われています。

ジャンヌはシャルルに、彼女には一年しか時間がないと常々言っていました。シャルルにとり捕縛されたジャンヌは、神の恩恵を失った存在であり助ける価値がない、と判断した可能性も否定できません。

ジャンヌの裁判について真実を要求したシャルル

1450年2月15日の更生裁判の際、シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクの敵は彼女を「理性に反して」、「非常に残酷に」滅ぼしたと宣言し、「この事件に関して真実を明らかにする」ことが王の意図であると述べました。

皮肉な人は、シャルルが復権裁判を要求したのは、自分の王位継承権が神からのものであることを証明するという利己的な目的のためだったと思うかもしれません。一方、ジャンヌが処刑されたと聞き、シャルルの心は傷ついたと言われています。優柔不断で臆病な王は、センチメンタルな気分も味わっていたに違いありません。

1453年、シャルルはイギリス軍をほぼすべて撃破して百年戦争を終結させ、フランスに平和と秩序の回復をもたらしました。その功績にもかかわらず、彼はジャンヌ・ダルクを見捨てた王として最もよく記憶されています。

ジャンヌは精神病だったのか?

フランスを勝利に導くよう、彼女を鼓舞した神秘的な声について、彼女の証言は次のように記述されています。

ジャンヌはまた、自分の声は大天使ミカエル、聖女カタリナ、聖女マルガリタであったと公判で述べ、さらに次のように述べた。「私は肉眼で、あなたがたを見るのと同じように、はっきりと彼らを見ました」

ジャンヌの声や幻視については論争があり、一部の精神科医は、ジャンヌが幻聴を伴う精神疾患の一種である統合失調症であった可能性を示唆しています。その一方で、教育を受けていないにもかかわらず、彼女には高い知性と記憶力、明晰さがあったことも認めています。これらの情報を分析し、彼女について書いたのは、精神病に精通した医師達です。

医学ライターのクリフォード・アレンは、統合失調は通常15歳ごろから現れ始めると報告しています。ジャンヌの場合、13歳で声を聞いたということから、症状がが早くから現れていたことになりますが、決してありえないことではないと指摘しています。(The Schizophrenia of Joan of Arc – Medievalists.net

ジャンヌの戦術は長けていた?

一方、彼女に関する多くの不思議な逸話は、精神病や単なる偶然の一致として片付けるのは難しいといえます。仮に声の原因が、統合失調症だったとしましょう。その場合、ジャンヌは統合失調症の10代の若者が軍隊を率い、勝利に導いた歴史上唯一の例となります。

ジャンヌの復権裁判において、テルメ卿、シャルトル伯爵、騎士のチバウド・ダルマニャック卿は、「軍隊を指揮し、命令を下し、戦闘を整え、兵士を鼓舞することにおいて、ジャンヌ・ダルクは最も熟練した隊長達に匹敵するほど戦術に長けていた」と証言しています。戦闘経験のないジャンヌが、経験豊富な兵士を驚かせるような戦い方、特に大砲の扱い方を知っていたとは論理的に説明しがたいのです。

神を冒涜した兵士の死

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20:7)

声の真意について明確な答えはありません。はっきりしているのは、ジャンヌはその声に従い、多くの戦いで正確な予知を行ったということです。裁判では多くの人が証言しましたが、彼女の神秘的な予知能力に関する興味深い逸話が、パスクレル司祭によって語られています。

パスクレル司祭は、ジャンヌがある城に入る途中、兵士が若い乙女(ジャンヌ)が通り過ぎるのを見て、粗野な言葉を使ったと語っています。その兵士に向かって乙女は、神を冒涜していると叱責し、その兵士は、一時間以内に天の玉座の前に召されるいう裁きの前に、召喚されるまさにその時に、神を否定したのだと付け加えました。その兵士は1時間以内に溺死しました。これがパスクレル司祭の証言です。

㊟パスクル司祭は、ジャンヌが城に入る途中、若い乙女が通り過ぎるのを見たある兵士が、下品な言葉を発したのを目撃しー(つまり)失礼な言葉に(神の)誓いを付け足したと語る。


パスクレル司祭の証言から、私たちはジョアンの予知能力について知ることができます。人は時に、家族や身近な人の悲劇を予知することができます。しかしジョアンは、見ず知らずの兵士の死をはっきりと知っていたのです。


当時、兵士が神の名を軽々しく使うことは珍しくありませんでした。けれども、ジャンヌはそのような、軽々しく神を冒涜する行為を厳しく批判しました。現代人のほとんどは、この逸話に登場する兵士のように、神の名を軽率に使うことがもたらす結果に、気づいていないに違いありません。

異端審問での逸話

ジャンヌの裁判は1431年2月21日月曜日に始まりました。断食と祈りの四旬節は3月に始まることが多いのですが、1431年は2月23日(水)から始まっています。イエスの受難に心を合わせ、ジャンヌはどのような四旬節の祈りを捧げたのでしょうか。

神は確かに彼女を守っておられたのです。裁判では、司教コーションと審問官たちがジョアンを陥れる罠を仕掛けていました。やがて彼らは、ジャンヌが簡単には罠にかからないことを知ることになるのです。

悪魔の名において

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)

ある時コーションは裁判の間、ジャンヌが、教導官を務めたラ・フォンテーヌと、二人のドミニカン修道士から助言を受けているのを目撃します。コーションは、その光景を見ると、すぐに彼の策略を邪魔するつもりだと気がつき、怒りに我を忘れました。そして彼らに対し「悪魔の名において、沈黙しろ!」と叫んだのです。それだけではなく、教皇とシノドスへのジャンヌの訴えを記録から削除し、何事もなかったかのように装ったのです。

ジャンヌに友好的な助言をした、二人のドミニカン修道士は、彼らの長上の機転で救われました。ですが、ラ・フォンテーヌは裁判が終わる前にルーアンから逃亡しています。

悪魔はコーションを通し、働いていたのでしょう。神の名を軽率に口にすることが神を否定することであるならば、悪魔の名によって命令を下すことは、あらゆるものの中で最も恐ろしい冒涜に違いありません。

異端審問官達を驚かしたジャンヌの答え

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。マタイ 10:16)

コーションを筆頭とする敵は、彼女に不利な証言をひきだすために、ありとあらゆる手をつくしました。ジャンヌには、正式な弁護人さえもつけられなかったのです。それにも関わらずジャンヌは、神学的な知識に精通している審問官たちが、驚くような答えを返しています。

例えば、コーションはジャンヌに「あなたは神の寵愛を受けていると思うか」と尋ねました。

ジャンヌは「もし私がそうでないなら、神が私をそこに置かれますように、もし私がそうなら、神が私をそうされますように。もし私が神の恩寵の中にいないと知っていたら、私はこの世で一番悲しい生き物になるでしょう」と答えました。

この答えに審問官達は、驚かされました。なぜならコーションのこの質問は、ジャンヌのような素朴な田舎娘には、知るすべのないトリックが隠されていたからです。

コーションの質問の罠

わたしの魂は屈み込んでいました。

彼らはわたしの足もとに網を仕掛け

わたしの前に落とし穴を掘りましたが

その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。

(詩編57:7)

カトリック教会の教えによれば、人が「恩恵の状態にある」と絶対的に断言することは、僭越(せんえつ)の罪となります。そのため、もしジャンヌが「恩恵の状態」である断言すれば、審問官たちは彼女が罪を犯している、すなわち悪に傾倒していると言うことができたのです。

一方、もし彼女が恩恵の状態にあることを否定すれば、彼女は自分が十分に悔い改めていない罪人であることを認めることになります。どちらの答えでも、ジャンヌは罪の状態で行動していたことになります。言い換えれば、彼女を導いていたのは、神ではなく悪魔だったということになるのです。

モーゼの律法とジャンヌの男装

女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。(申命記 22:5)

コーションは、彼女の証言にまったく反する数々の偽証拠と罪状を用いて、ジャンヌを異端として告発しました。恐らく、ジャンヌに対する立件がかなり弱いことを恐れ、何としても彼女を異端と断定したかったのだと考えられます。コーションは、ジャンヌが男物の服を着ていることを非難し、申命記22:5のモーセの律法を引用しました。

それだけでなく、ジャンヌの敵は、幻視や啓示を受けたことはなく、神の命令で行動したというのは嘘で、神を冒涜する異端者であるという旨の声明書に署名させるために、恐ろしい策略をめぐらせていました。

審問官達は、彼女の魂を救うという口実で、拷問を計画しました。ジャンヌに恐怖を与えるため、彼らは拷問器具を見せましたが、彼女は屈しませんでした。

異端審問による聖ジャンヌの裁判の記録や、死後の復権裁判の記録には、ジャンヌの素朴でまっすぐな人柄を窺い知ることができます。また家族、声、ジャンヌによるとされる奇跡について詳しく知ることができる逸話が数多く残されています (残念ながら、ここでそのすべてを紹介することはできません)。多くの逸話は、ジャンヌの聖性をはっきりと示すだけでなく、ジャンヌの聖性がコーションや審問官たちに決して認められなかったことも示しています。

聖体への冒涜

裁判員たちがジョアンに対して行った非難のひとつは、女性が男装して聖体拝領を受けることは冒涜に等しいというものでした。

しかし、男女の服装に関するモーセの掟が、実際にキリスト者の良心を拘束するかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれたからです。その際、モーゼの道徳律はすべて支持されましたが、民法や儀式律は支持されませんでした。衣服に関する律法は、神学者たちは通常、時代遅れの儀式律法に属すると考えています。

さらに、申命記の男性の服装に関する箇所はあまり知られておらず、熱心に探さなければ見つけることは困難であっただろう。コーションと異端審問官が時間と労力をかけて獲物を執拗に追い詰めたことがよくわかる。

時代遅れとみなされていた儀式律法

男女の服装に関するモーゼの掟が、実際に、キリスト教徒に対する権威を発揮するのかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれました。その際、モーゼの道徳律はすべて保持されましたが、民法や儀式律に対してはされませんでした。衣服に関する律法は、神学者たちは通常、時代遅れの儀式律法に属すると考えているものです。恐らくそれが、男装をし、聖体を拝領するという問題を取り上げた理由でしょう。聖体を持ち出すことで、彼女を 「冒涜 」の罪に問うことができたからです。

Image: The Trial of Joan of Arc, by Louis Maurice Boutet de Monvel 

Sources:

Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.

Gower, Ronald Sutherland, Lord. Joan of Arc. London: J.C. 1893.

(1)へ

(2)へ

聖母のエリザベト訪問の祝日

7月2日は、聖母マリアが、妊娠中のいとこのエリザベトを訪問したことを記念する祝日です。訪問を記念するという意味のなかには、このエピソードの中にある、神学的に豊かな意味が含まれたお祝いになります。伝統的には7月2日に祝われますが、ノヴス・オルドでは5月31日となっています。聖書には、以下のように語られています。

39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

–          ルカ 1:39–45

胎児であった洗礼者ヨハネの喜び

上で述べましたが、エリザベトのお腹の中にいた子どもは洗礼者ヨハネでした。旧約聖書の預言者たちが皆そうであったように、ヨハネはメシアが来られることを預言しました。(ヨハネ1:19-28)ヨハネは、ある日、イエスが自分に向かって歩いて来られるのを見て、人々に「神の小羊だ」つまり、この方こそメシアですと告げました。(ヨハネ1:29-34)このため、ヨハネは旧約聖書の最後の預言者として知られています。

伝統的な解釈によれば、預言者であったヨハネは、マリアの胎内にいた胎児イエスがメシアであることを悟り、喜びのあまり踊ったと言われています。

カトリックの最も有名な祈りのひとつであるアベ・マリア

聖霊に満たされたエリザベトが、マリアに告げた祝福の言葉は、カトリックの聖母への祈りである 「アベ・マリア 」の一部となりました。

    Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum.

    Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus.

    Sancta Maria, Mater Dei,

    Ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae.

    Amen.

  アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
    主はあなたとともにおられます。
    あなたは女のうちで祝福され、
    ご胎内の御子イエスも祝福されています。
    神の母聖マリア、
    わたしたち罪びとのために、
    今も、死を迎える時も、お祈りください。

(太字の部分は16世紀に追加されました)

Ave Maria – Gregorian Chant – Chants of a Lifetime

福音書は、コイネーギリシャ語で書かれています。コイネーギリシャ語は、ローマ帝国の共通語で、ユダヤ人が公の場や異邦人と話すときに使われたと考えられています。しかし、エリザベトは、おそらくアラム語でマリアに挨拶したと考えられています。アラム語は当時のパレスチナ系ユダヤ人の母国語であり、おそらく彼らが家庭内で使っていた言語だと信じられているからです。

以下のビデオでは、シューベルトのアベ・マリアを聴くことができます。

Schubert: Ave Maria, ‘Ellens Gesang III’ D839
Friar Alessandro

マリアの言葉 マニフィカト

マリアがエリサベトに語った言葉は、ルカによる福音書1章46節から55節にあり、マニフィカトと呼ばれています。マニフィカトは伝統的に晩の祈り(Vespers)で歌われ、通常は日没の頃に歌われます。以下はその一部となります。

46そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、

47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

48身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も

わたしを幸いな者と言うでしょう、

49力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。

–          ルカ 1:46–49.

Magnificat chanted by the Monks of Fontgombault Abbey-Lucas Orsot

ゼカリヤの賛歌

晩の祈り(Vespers)でマリアの聖歌が歌われた後、就寝前の祈り(Compline)でシメオンの賛歌(ルカ2:29-32)が歌われ、日の出の頃、朝の祈り(Lauds)でゼカリヤの賛歌(ルカ1:68-79)が歌われます。以下はその一部となります。

68ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。

主はその民を訪れて解放し、

69我らのために救いの角を、

僕ダビデの家から起こされた。

70昔から聖なる預言者たちの口を通して

語られたとおりに。

71それは、我らの敵、

すべて我らを憎む者の手からの救い。

–          ルカ 1:68–71.

Benedictus (Canticle of Zechariah, Solemn Psalm Tone 1f

古い本に見つけたアイルランドの伝統的なマリア賛歌

今年の7月2日は日曜日でしたが、教区司祭のお説教の中で、マリアがエリザベトを訪問したことについて特にお話しはありませんでした。ほとんどの教区司祭はノーヴス・オルドの暦に従って説教しますので、これは驚くことではありません。それにしても、せっかくの聖母マリアの祝日なのに、伝統的な暦について何も語られず、いささか寂しい気がしていました。

ミサの後、いつものように教会内の小さな図書コーナーに立ち寄りました。教会の図書コーナーには、時代から取り残されたような古本がたくさんあり、自由に借りることができるからです。

借りたい本を何冊か取り出していると、目立たないところに赤い背表紙と中世風の女性の絵が描かれた本が目に入りました。手にとりよく見てみると、小さな字でセイント・ルーシーとあります。背表紙の女性は聖ルーシー(ルチア)で、私の守護聖人の一人です。興味をそそられた私は、『My Nameday-come for Dessert』(ヘレン・マクローリン著)というタイトルの、その本を開いてみました。

私が偶然開いたページは、7月2日の「聖母のエリザベト訪問の祝日」のページで、おすすめの賛美歌がありました。最近の音楽にはない、シンプルで素朴な魅力をもつ賛美歌です。マリアの祝日のひとつに、私の守護聖人を通し、神がこの歌と祈りを紹介してくださったようで、とても幸せな気分になりました。

「Oh Mary of Graces― ああ、恩恵のマリアよ」 静かな祈りの旋律

この賛美歌は、もともとはアイルランド、ゲール語の伝統的なフォーク・ソングだったそうです。伝統的なアイルランドの歌い方はアカペラで、楽器の伴奏はなく、物語を語りながら目を閉じて歌いました。

この短くも美しい歌は、ゲール語から英語に翻訳され、「Oh Mary of Graces ーああ、恩恵のマリアよ」と呼ばれています。原曲の静かな旋律は、心にしみる哀愁があります。私はこの曲に悲劇に見舞われた人が、聖母に祈りを捧げているような印象をいだきました。と同時に、自分の不幸を嘆くのではなく、祈りによって乗り越えようとする人の強さも感じます。

伝統的なゲール語では歌われていませんが、ジョナス・エクルンド(Jonas Eklund)氏のビデオは曲の雰囲気にぴったり合っています。ギターのシンプルな伴奏に合わせ、ゆったりとしたテンポで少女が透明感のある声で歌っています。

O Mary of Graces- Jonas Eklund

この聖母への美しい祈りと賛歌が忘れ去られることなく、後世に語り継がれることを祈ります。

Source: McLoughlin, Helen. My Nameday–Come for Dessert. Collegeville, MN: The Liturgical Press, 1962.

Image: The Visitation 1433-1434 Fra Angelico

LGBTイデオロギーとカトリック信仰

最近のアメリカでは、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)のイデオロギーが強く支持され、賛美されています。それだけでなく、LGBT運動やウォーク・アジェンダ寛容派に、反する視点を持つことはタブーとされています。この運動の名称には長年にわたっていくつかの追加がなされ、現在では頭文字をとってLGBTQIAと呼ばれていますが、ここでは略してLGBTと表記します。

基本的に、この問題には2つの側面があります。寛容派は、LGBTを抑圧されたマイノリティとして感情的に同調し、個人や社会全体が神の愛を実践し、受け入れる方向に向かうべきだと主張します。それに対してもう一方は、人々を受け入れるか否かという観点ではなく、真理と偽りという観点でこの問題を捉えています。こちら側の主張は、魂の破壊につながるものは避けなければならないとします。トマス・アクィナスによって「相手の善を望むもの」と定義された愛の実践とし、どのような行動が破壊につながり、どのような行動が救いにつながるのかについて、人々が真実を理解するのを助けようと考えるからです。

LGBTプライド・マンスの始まりとは?

LGBTコミュニティを祝福する「プライド・マンス」の起源は、現在では 「ストーン・ウォールの暴動」あるいは 「ストーン・ウォールの反乱 」として知られている、ニューヨークでの一連の抗議活動です。この事件(あるいは一連の事件)に関する以下の記述は、ウィキから要約したものです。ゲイ・コミュニティの報告に基づいており、警察の証言は含まれていませんが、概ね正確であると考えられていました。

「ストーン・ウォール・イン」は、ジェノベーゼ犯罪一家と関係があり、露出度の多いゴーゴーダンサーがいたこともあり、たびたび警察の手入れをうけていました。警察の手入れは、犯罪を未然に防ぐ目的でしたが、そこに集うLGBTの人々に対する不当な扱いもありました。

1969年6月28日、ストーン・ウォール・インの夜は、いつもの夜ではありませんでした。その6日前、同性愛の権利に賛成していた女優ジュディ・ガーランドが亡くなり、常連客たちは感傷的な夜を過ごしていたからです。警察の手入れが始まったとき、彼らはジュディを偲んでストーンウォール・インに集まっていました。警察による度重なる手入れ、そして女優ジュディ・ガーランドの死が重なり、我慢の限界に達した彼らは警察官を攻撃し始めました。事態はたちまち暴動へと、エスカレートしてしまいます。その後の数日間さらなるエスカレートは、最終的には2,000人を超えるLGBTと、400人以上の警察官を巻き込んだ暴動へと発展したのでした。

1970年6月28日、暴動1周年を記念するパレードが開催されました。それ以来、6月はLGBTにとって記念すべき月となり、プライド・マンスが誕生したのです。

LGBTイデオロギーを支持した歴代アメリカ大統領

1999年6月、ビル・クリントン大統領はストーン・ウォール暴動にちなみ、6月をゲイ&レズビアン・プライド・マンスに指定しました。

2011年6月、バラク・オバマ大統領は、プライド・マンスが祝うカテゴリーに「バイセクシュアル」と「トランスジェンダー」を追加しました。

2012年、カトリック信徒であると公言しているジョー・バイデン副大統領(当時)は、カトリック・カテキズムを完全に無視した、同性婚を公に支持し始めました。それ以前、バイデンは上院議員として、一貫して同性婚に反対票を投じてきていたのです。けれどもLGBTのイデオロギー支持は、ビル・クリントンの時代から、民主党基本政策の主要な要素のひとつでした。つまり、民主党のバイデンが同性婚を支持したのは、政治的な理由によるものだと思われます。

イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と言われました。バイデンは同性婚だけでなく、中絶の「権利」やトランスジェンダーの「ケア」(未成年者も含む性転換手術)も支持し、神よりも自分のキャリアを優先している、名目上のカトリックであることは明らかです。

道徳的問題への疑問

今年ワシントンD.C.で開催されたプライド・イベントは、6月10日にホワイトハウスで開催されたものも含め、多くの人々が参加しました。

米国では、自由にイベントを開催し、祝うことができます。(言うまでもなく、違法な、公的に許可されていないイベントを行うことはできません)つまり、LGBTがプライド・マンスを祝うことは、その行事に賛同する人々によって適切な方法で行われる限り、何の問題ないということになります。

しかし最近のプライド・パレードでは、通常ならわいせつ行為とみなされるような、過激なコスチュームを着た参加者もいました。子供に見せたくないようなパレードが、白昼堂々と行われたのです。

事件の背景にある問題

ChurchLaw & Taxというウェブサイトによると、合衆国憲法修正第1条は、信仰の自由と行動の自由という2つの概念を包含しており、信仰とは異なり、行いはコミュニティを守るために規制されることを述べています。

プライド・イベントの背後にある真の問題は、どのような活動、どのようなライフスタイルであったとしても、無宗派の(公式には無神論者でも世俗主義者でもない)米国政府が、大きな「誇り」をもって祝うべきである、としていることだといえます。

さらに政府主催のイベントにおいて、プライド・イベントでなければ容認できないような行動を容認する傾向がありました。プライド・パレードに参加している限り、何をやっても許されるという印象を受けます。パレードがあろうがなかろうが、最低限の公序良俗を守るよう要求するのは、理不尽な扱いなのでしょうか。上で述べたような行き過ぎた行為に対し、非差別的、合法的方法で対応することは不可能ではないはずだからです。

聖書は子供に有害?

LGBTイデオロギーの問題は、教会だけでなく、(最近では)学校にも影響を及ぼしています。LGBTイデオロギーを支持する本が、学校の図書館に置かれるようになり、その中には性的な内容が含まれた本もあります。

コロラド・パブリック・ラジオ(CPR)ニュースの6月29日付の記事によると、保守的な親たちは、LGBTQの本や性的な内容の本が、学校図書館に置かれることに抗議しているとのこです。これに反発をしたある保護者は、聖書には露骨で不適切な性的、暴力的内容が含まれている(と思われる)ため、学校図書館から聖書を取り除くべきだと要求しています。(以下CPR記事より)

「アメリカ図書館協会は、2022年に1,200件以上の異議申し立てを記録しており、20年以上前に図書館での検閲に関するデータを取り始めて以来、最も多い数となっている」

現在、アメリカの多くの州で、同様の問題が起きています。

ファティマの聖女ジャシンタは、永遠である教会の教えをないがしろにし、流行に従うことは危険だと警告しました。真理である聖書の教えと、移り変わる世俗的イデオロギーを教える書物を、あたかも同等であるかのように比較するのは大きな矛盾です。いずれにせよ、文化戦争が激化していることは間違いないといえます。

貞節と同性愛に関するカトリック・カテキズム

同性愛に関するカトリックの懸念は、新しいものではありません。近年、教会は常に教えてきたことを繰り返してきただけです。例えば1986年10月、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、ローマの司教団に宛てた書簡の中で、同性愛について次のように指摘しています。(Letter to the Bishops of the Catholic Church on the Pastoral Care of Homosexual Persons (vatican.va))

「今日、教会内でさえも、同性愛の状態をあたかも無秩序であるかのように受け入れ、同性愛活動を容認するよう、教会に大きな圧力をかける人々が増えている」

では、同性愛に関するカトリックの教義とは、一体どのようなものなのでしょうか。カトリック教会のカテキズムには次のように書かれています。(2357-2358項)

2357 同性愛とは、同性に対して排他的または優位的な性的魅力を感じる男性同士または女性同士の関係を指す。同性愛は、何世紀にもわたり、さまざまな文化の中で、実に多様な形をとってきた。その心理的な原因は、ほとんど解明されていない。同性愛行為を重大な堕落の行為とする聖書に基づき、伝統は常に「同性愛行為は本質的に無秩序である」*と宣言してきた。その行為は自然法に反している。彼らは性行為を生命の賜物に対して閉ざしている。真の情愛と性的均衡のとれた状態から生じるものではない。どのような状況においても、それらは承認され得ない。

2358 根深い同性愛の傾向を持つ男女の数は、無視できない数である。客観的には無秩序であるこの傾向は、彼らの多くにとって試練である。彼らは尊敬、思いやり、感受性(優しさ)をもって受け入れられなければならない。彼らに対する不当な差別の兆候はすべて避けなければならない。このような人々は、自分の人生において神のみこころを全うし、もし彼らがキリスト者であるならば、そのような状態から遭遇するかもしれない困難を、主の十字架の犠牲と一つにするよう召されているのである。

* 創世記 19:1-29、ローマ 1:24-27、1コリント6:10、1テモ 1:10.

** CDF, Persona humana 8.

もちろん、同性愛の実践は、欲望(七つの大罪の一つ)の罪を犯す一つの方法に過ぎません。カテキズムは、他の多くの形態の欲望も扱っており、そのいくつかは、要約の部分で、次のように言及されています。(パラグラフ2396)

2396 貞操に著しく反する罪の中には、自慰、姦淫、ポルノグラフィー、同性愛の実践がある。

㊟カテキズムに関する日本語翻訳は、私が翻訳したものであり教会公式翻訳ではありません。教会公式日本語翻訳が私の手元にないため、英語版のカトリック・カテキズムから翻訳しています。

ラッツィンガー枢機卿は、同性愛の問題は複雑であり、神学的にバランスの取れた助言が必要であると説明しています。彼はさらに、性的能力の使用は夫婦間においてのみ良いものであることを明らかにしています。さらに、救いを妨げる誤った考えを教会が拒絶することは、個人の尊厳や自由を制限することではなく、むしろ自由と尊厳を守ることだと強調しています。(LGBTに対する真の司牧的アプローチは、罪を認め、セクシュアリティに関する真理を宣言しなければならない)

教会は、罪は罪であると教えることに非があるのか?

Jesus Preaching (1652) Rembrandt

「カトリック教会はLGBTを拒絶している 」と言い、さらに 「神は愛であり、私たちが互いに愛し合うことを望んでおられるのだから、私はすべての人を愛し、受け入れるよう努めている」と言う人がいます。そのような意見を持つ人は、LGBTを受け入れないのは、神の教えを実践しない嫌悪者である と指摘します。

そのような人々に、私はこのように答えます。「罪を罪と呼ぶことは、憎むことと同じではない。神はすべての罪人(言い換えればすべての人)を愛し、私たちにもそうするように命じておられる」と。

それだけではなく神は、罪を憎み、罪から救うことを望んでおられます。混乱を避けるために、神はどのようなことが罪であるかを、聖書、そして教会を通し、明確に教えておられます。聖書には「人には正しいと思われる道があるが、その終わりは死に至る道である」(箴言14:12)とあります。神がこのようなことをしたのは、(神が意地悪なのではなく)、罪が不幸につながるからであり、神は私たちが幸せになることを望んでおられるからです。

教会が 「人々を拒絶している 」とされる理由については、次のように説明されます。カトリック教会はすべての信徒に、カトリックのカテキズムと道徳に忠実であることを求めます。言い換えれば、教会の教えを信じ、それを実践する意志のある人は誰でも教会に入ることができます。たとえ信徒が正しく信じ、実践していなくても、悔い改めて赦され、生活を改めれば、立派なカトリック信徒であり続けることができます。教会は罪を拒絶するのであって、人を拒絶するのではありません。

教会の教えを信じないなら、教会に入らなければよいだけです。けれども、教会の教えを信じる人々を「憎しみを抱く者」と定義し、非難するのは、正直でも公正でもありません。

LGBTQIA+プライド・ミサに反対するアンナ=ケイト・ハウエル

文化戦争の一環であるLGBTイデオロギーは、すでにカトリック教会にも浸透しています。例えば、6月14日には、ジョー・バイデン大統領の教会でもある、イエズス会運営のホーリィ・トリニティ教会で第3回LGBTQIA+プライド・ミサが行われました。このミサの反対派は、カトリック教義に反していないか明らかでない点について指摘しています。(Catholic With Same-Sex Attraction Calls on Cdl. Gregory to Cancel DC ‘Pride Mass’ – LifeSite

ミサに反対したSSA(同性に魅力を感じる)で、回心したアンナ=ケイト・ハウエルは、31歳の神学修士を目指している学生です。彼女は過去に、性的に乱れた罪深い生活を送り、26歳の時には同性婚もしたと告白しています。以下は、アンナがホーリィ・トリニティ教会の教区長である、ワシントンD.C.のグレゴリー枢機卿に送った手紙の要点となります。

LGBTQは私たちのアイデンティティではない。私たちは同性に惹かれることを経験しているのであり、罪の名前(プライド)で呼ばれることを好まない。それは高慢の罪である。

カトリック教会の教えを明確にすることは、これまで以上に重要である。教会内に曖昧さを悪用し、武器として利用する人々がいることが懸念されるからだ。

私たちは罪への衝動(同性へ魅力を感じる)を祝っておらず、教会外の人を誤解させたくない。

「だがプライドに参加したからといって、私たちが行進するすべての人、すべての山車、すべてのメッセージに同意することにはならない」と言われるかもしれない。しかし、プランド・ペアレントフッドに、多額の寄付をするカトリック教徒についても同じことが言える。どちらの主張も馬鹿げている。プランド・ペアレントフッドが主に中絶手術を行うために存在するのと同様に、「プライド・マンス」が主に性的な罪を祝うためのものであることは誰もが知っている。カトリック信者が、どちらかを支持することは恥ずべきことである。

グレゴリウス枢機卿、私はカトリック信徒として、あなたが、私が出会うすべての人の最善を想定することが私の希望である。その慈愛の精神に基づき、私はあなたが混乱を招き、信徒と信徒ではない人々を同様に(教会に対し)恥ずべきことに陥れ、同性に惹かれる人に対する教会の証しを、害することを望む人物ではないと信じることにしている。

私のような者に、尊敬と優しさをもって寄り添うというのが、あなたの願いであると信じている。あなたは、私たちが全能の神によって尊厳を与えられた人間であることを、決して忘れたくないと信じる。私たちが苦しむかもしれない、いかなる乱れた気質をも、超越する尊厳を持った存在であることを決して忘れないというのが、あなたの願いであると信じている。これらのことがあなたに真実であると信じ、私はキリストにある姉妹として、どうかプライド・ミサを止めてくださいと心から願っているのである。……この行事が行われることは、何の益もなく、大きな害をもたらすだろう。

最後に、アンナは神の祝福を祈る言葉で手紙を締めくくっています。

イエスは弟子たちに「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)と説きました。これは簡単なことではありません。アンナが経験した苦しみは、並大抵のものではなかったに違いありません。私はアンナの手紙に、自分の十字架を背負う覚悟した人にある特別な強さと説得力を見出します。

D.C.のグレゴリー枢機卿はミサの中止を命じたませんでした。しかし私は、彼女の手紙が私や他の多くのカトリック信者に、信仰を守り続ける勇気を与えてくれたと確信しています。

枢機卿が教区の司祭や信者の良き模範となり、何が正しいのかを明確に示し、魂の死にいたることがないよう導いてくださることを祈ります。

Image: An ancient painting of a greek tomb inside the archaeological museum of paestum in italy

聖ジャンヌ・ダルク: 悲劇への序曲(2)

私が信頼していた親友、
私のパンを食べたかれでさえ、私に向かってかかとを上げた。

-詩篇41:9(ドン・ボスコ社)

民衆はジャンヌを崇拝し、彼女がもたらした勝利と平和に酔いしれていました。そのような熱狂的な民衆とは対照的に、フランスの貴族や軍司令官の中にはジョアンに嫉妬を抱く者たちがいました。詩篇41篇10節にあるように、ジャンヌの本当の敵は味方の中にいたのです。

赤いドレスの贈り物と予知

ランスに向かう途中、シャロンの近くで、ジャンヌはドムレミ村からやってきた友人たちと会いました。彼らとつかの間の楽しい時間を過ごしたジャンヌは、赤いドレスを贈られました。そこでジャンヌは、彼女を待ち受ける悲劇的な運命を予感させるような言葉を口にしています。彼女は二人の旧友に、将来への唯一の不安は裏切りであることを告げたのです。(Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)

ジャンヌはただ単に、自分の運命についての漠然とした不安を、古い友に語っただけなのでしょうか。それとも、神から何らかの警告を受けていたのでしょうか?偶然かもしれませんが、彼女が友人から送られたドレスの赤は、殉教者の典礼色です。神の導きに最後まで従い、火刑に処された彼女の死を象徴していたかのようです。
いずれにしろ、この小さなエピソードは、コンピエーニュで起こる悲劇を予知していたのです。

1429年7月17日:王の戴冠式-神の預言の成就

ジャンヌが王に告げた、神の意志は成就されました。シャルル7世はついに、国王に即位したのです。

王はオルレアンの乙女を右手に従え、ランス大聖堂に入りました。王太子はサン=レミーの古い修道院教会の聖油で油を注がれ、フランス王となったのです。ジャンヌは戴冠式の間、旗をもち、王のそばに立っていたと言われています。

IV. Le sacre de Charles VII: V. “Te deum”

戴冠式において、王のそばで旗をもつことは伝統的マナーではありませんでした。王がこの慣例に反することを許可したことは、ジャンヌの功績に感謝していることを明らかにしています。

ジャンヌは戴冠式が終わると、ひざまずき、王の足を抱きしめると、以下のように告げたことが知られています。

「気高い王よ、今こそ神のご意思が成就しました。神は、私がオルレアンの包囲を解き、あなたをこのランスの町にお連れし、聖なる戴冠式をお受けになることで、あなたが真の王であり、フランスの王位を受け継ぐ者であることをお示しになっているのです」

この言葉を聞いて、(国王を除く)その場に居合わせたすべての人々が涙を流したと言われています。ジャンヌの言葉から、彼女には傲慢さがなく、王の栄光を自分の手柄にしようとしなかったことが理解できます。

ジャンヌの願った永遠の安息の地

「私が死んだら、この善良で敬虔な人々の中に埋葬されたいのです」と彼女は言った。「でも、神様が私を故郷に、妹や弟たちのもとに帰らせてくださるなら、どんなに嬉しいことでしょう!とにかく、私は救い主に命じられたことをしたのです」( Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)

戴冠式は成功しました。そのような華やな式典にもかかわらず、なぜか彼女は、自分の将来を、予感していたかのような言葉を大司教に残しています。

ジャンヌは自分の死と埋葬について話していました。このとき、彼女はまだ10代です。そのような年齢で、自分が死んだらどこに埋葬されるかを気にしていたのは不自然に思えます。彼女は続けて、神から託された使命を果たしたことを明らかにしています。

シャルル7世はジャンヌの功績をたたえ、彼女とその家族を貴族にし、紋章と金銭的報酬を与えました。ジェレミー・アダムス博士によれば、戴冠式の後、国王はジャンヌの仕事は完遂されたと宣言し、田舎に戻るよう求めたそうです。使命を果たした彼女は、生まれ故郷のドムレミ村に戻り、そこで修道女として神に仕えながら静かに暮らすこともできたでしょう。しかし実際には、彼女は別の道を選んだのです。

1430年4月: パリ奪還の失敗

ジャンヌは、フランスの未来の安全を維持するために、パリを奪還しなければならないと考えていました。ところが、パリの人々はすでにイギリスのヘンリー6世に忠誠を誓っていました。そのため民衆は、フランス王がパリを支配すると報復を受けるのではないかと恐れ、城壁都市パリの守りを固めていたのです。残念ながら、ジャンヌの兵力はパリのような、強固な城壁と塔を持つ場所を攻撃するには不十分でした。優柔不断なシャルル7世がようやく兵を増派し、ジャンヌは攻撃を開始しますが、パリを奪還することはできなかったのです。

この時、ジャンヌはクロスボウの矢で、大腿部に深い傷を負いましたが、戦場に残りつづけていました。結局、彼女の意に反し、退却せざるを得ませんでしたが、攻撃を続けていれば勝利していたに違いないと抗議していたそうです。

二人の敵-いつわりの口、いつわりの右手

7.上から、み手をのべ、

大水から、罪深い剣から、私を救い出されよ。

異邦の子らの手から、私を解かれよ。

8.かれらの口は、いつわりを語り、

その右手は、いつわりの誓い。

-詩編14:7-8(ドン・ボスコ社)

ジャンヌのパリ奪還の失敗は、味方のふりをした敵を喜ばせました。特に二人の敵、ランス大司教とジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユ(1382年頃~1446年5月6日)は、すべての責任をジャンヌに押し付けるよう王に働きかけました。その結果、国王はランス大司教に、ジャンヌの意向に反してイングランドと停戦協定を結ぶことを許可したのです。

この時のランスの大司教レニョー・ド・シャルトル(Regnault de Chartres 1380-1444)は、ジャヌから戴冠式の時に、不吉な予感を感じさせる言葉を聞いた人物です。ジャンヌは、まさか彼が敵である、とは思わなかったはずです。彼女から埋葬場所の願いを聞いた大司教は、どのように答えたのでしょうか。大司教はジャンヌが捕らえられた時に、神の正義の証明である、と大喜びとしたといわれています。ジャンヌ捕縛の知らせを、ランス市民に伝えたのは彼ですが、ジャンヌは高慢であり、神よりも自分の意志に従おうとしたことで神の怒りをかったと伝えています。

ジャンヌのもう一人の宿敵は、ジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユ(1382年頃-1446年5月6日)という貴族です。彼はジャンヌの忠実な騎士で、後に殺人犯として知られるようになったジル・ド・レと遠縁の関係にあります。ラ・トレモアイユはその抜け目のなさから、シャルル7世に大きな影響を与えた人物でした。彼の残酷性は、彼の金銭的利益と地位のため、シャルル7世の寵愛を受けていたピエール・ド・ジャックを誘拐し、溺死させたことからも理解できます。

彼は国王をランスに行かせないために、あらゆる手を尽くしました。また、さまざまな場面でジャンヌを妨害し、彼女が再びパリを攻撃しようとしたときにも阻止しています。後にジャンヌが捕われた時、王が釈放を得られなかったのも、彼の影響力だと言われています。

声がつげたジャンヌの暗い運命

ジャンヌの声はもはやかつてのように、明確な命令を与えることありませんでした、彼女はフランスを救うために戦い続けていました。

1430年4月初旬、復活祭の週にムランの町にいたジャンヌに、聖カタリナと聖マルガリタが、語りかけました。彼らはジャンヌに、聖ヨハネの日(6月24日)の前に捕虜になるが恐れるなと告げています。彼女は聖人たちに、捕虜になったらすぐに死ねるようにと願ったと伝えられています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)

この出来事があった後に、ジャンヌはラニーの戦いに赴きます。捕虜になるかもしれない、という恐怖さえ、フランスを救うという彼女の燃えるような心を変えることはなかったのです。(.Joan of Arc | Biography, Death, Accomplishments, & Facts | Britannica

1430年4月 ラニー=スル=マルヌの戦い: 斬首された男

イギリス側のブルゴーニュ軍は、パリの防衛を強化するため、アラスに大軍を集結させていました。ブルゴーニュの軍隊は、アラスのフランケに率いられ、ラニーに向かっていました。けれども、彼らはラニーに向かう途中、別の都市を略奪しています。その結果、その知らせを受けたフランス軍は、彼らが向かってくることを知り、戦いに備えることができたのです。

ラニーにいた兵士たち、フランス軍の援軍、そしてジャンヌたちの努力のおかげで、アラスのフランケは捕らえられ、彼の部下たちは殺されるか捕虜となりました。フランケはその後、ジャンヌが欲しがっていた捕虜と交換されるはずでしたが、その捕虜はすでに死んでいたことが判明します。さらに、アラスのフランケは略奪だけでなく、殺人の罪も犯していたことが裁判で明らかになりました。彼をどうするかと問われたジャンヌは、部下たちに「正義が求めるままに、この男をしなさい」と告げたと言われています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)

人の罪を憐れむ神の愛

ジャンヌは、正義が求める罰について、具体的なことは述べてません。フランケの刑罰は、斬首でした。後にフランケの斬首は、ジャンヌの運命を決定付ける要因となってしまいます。異端審問は、ジャンヌがフランケ斬首の責任があるとし、それが彼女の火刑の理由の一つとなったからです。フランケの処刑は、正当だったのでしょうか。フランケは陪審員によって裁かれ、殺人罪で有罪となりました。他方、捕虜として、彼にはいくつかの権利が与えられていました。その中には、彼の属する領土で、裁きを受ける権利の可能性も含まれていました。しかし、この権利については、当時明確ではなかったのです。

聖書には、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)とあります。

神の目から見て、ジャンヌがフランケの斬首に対して、どれほどの責任を負っていたかはわかりません。けれども、キリストが私たち罪人を憐れんでくださったように、彼女がフランケを憐れんでいたなら、フランケにも生き延びるチャンスがあったのかもしれません。

1430年5月23日 :コンピエーニュ包囲戦で捕らえられたジャンヌ

The Capture of Joan of Arc, ca. 1850 by Adolphe Alexandre Dillens

ジャンヌ最後の戦いは、聖霊降臨祭の日のコンピエーニュ包囲戦でした。理論的には、聖霊降臨祭のような大祭、そして日曜日に戦闘を行うことは「神の平和と休戦」によって禁じられていました。しかし、すでに15世紀には、「神の平和と休戦」は、ほとんど無視されるようになっていたのです。(このテーマを調べているうちに、15世紀半ばには、すでに世俗主義の精神が、これほどまでに広まっていたことを知り、驚いたことを付け加えておきます)おそらくジャンヌは、聖霊降臨の祭日でも、軍を戦わせるつもりだったのかもしれません。もしくは兵士がどうしても、戦うと主張したのかもしれません。ジャンヌがなぜ、この日に戦いに行くことを決意したのか、私たちに知るすべはありません。

ともあれ、ジャンヌは500〜600騎の騎兵と歩兵を率いて、ブルゴーニュ公を攻撃しました。戦いの最中、ジャンヌは弓兵に馬から引きずり降ろされ、ブルゴーニュ軍の捕虜となってしまいます。イギリスとブルゴーニュは、500人の兵士を捕らえたことよりも、ジャンヌを捕らえたことを喜んだと言われています。( The campaigns of Joan of Arc, according to the Chronicles of Enguerrand de Monstrelet (deremilitari.org))

イギリスに売られたジャンヌ

捕らえられたジャンヌは、ジャン2世・ド・リュクサンブール(1392-1441)の後見人の下に置かれました。リュクサンブールのドゥモワゼル(未婚女性)と知られた、彼の叔母(ジャンヌ・ド・リュクサンブール)は、ジャンヌに同情的で、彼女をイギリスに売ることに反対していました。

彼女がジャンヌに同情的だったのは、ジャンヌ同様、彼女も非常に敬虔だったからと思われます。ジャンヌにとり不幸だったのは、1430年、ドゥモワゼルは弟の墓詣にアビニョンに行き、同地で死去してしまったことです。

ドゥモワゼルの弟ピエール・ド・リュクサンブールは、1387年に亡くなるまでアヴィニョンの枢機卿を務めており、聖人と見なす人もいました。1527年、ピエール・ド・リュクサンブールは、教皇クレメンス7世によって列福されています。

伯母の死後、相続の心配がなくなったジャン2世は、身代金と引き換えにジャンヌをイギリスに売り渡しました。伯母の遺言である、ジャンヌを売り渡さないことを条件にした財産贈与の条件を無視したのです。こうしてジャン2世は、莫大な財産を手にしましたが、翌年、あっけなく亡くなっています。

ジャンヌは、国王シャルル7世の戴冠式まで、次々と幸運に恵まれ成功してきました。ですがその後の彼女の人生には、暗い影が落とされました。ジャンヌは幾度も、自由になるべきチャンスがありながら、何度も何度も裏切られたのです。

Image: Joan in Reims Cathedral by Jules-Eugène Lenepveu

(1)へ

(3)へ

イエスの聖心の祝日

聖心の祝日おめでとうございます。

イエスの聖心の祝日は、聖体の祝日の次の金曜日に祝われます。

イエスの聖心の祝日は、17世紀にフランスの幻視者であり修道女であった聖マルガリタ・マリア・アラコクが、神の啓示を受けたことからはじまっています。2000年の教会の歴史の中では比較的新しい祝日ですが、バチカンによるいくつかの承認を経て、現在では教会の暦の中で最も大切な祝日のひとつとされています。

イエスの聖心:肉と霊

カトリック聖務日課集は、カトリックの祈り、詩編、朗読(聖書など)そしてカトリックの祝日や典礼に従って編集されている本です。聖務日課集は、西方教会のすべての司祭・修道女が伝統的に毎日使用しているものでした。(もちろん、ラテン語で書かれています。)その伝統的聖務日課集を、原文のラテン語から美しい英語に翻訳され、ある典礼財団から「聖務日課集-英語版㊟」として英国教会が出版しています。そしてイエスの聖心について、カトリック神学に基づいた説明が加えられ、大変わかりやすい解説が書かれています。以下は、その解説の概要となります。㊟ バチカンによっての承認はありません。

イエスの聖心はいつはじまったのか?-カトリック聖務日課集より


イエスの聖心への献身がいつ始まったかについての記録はありませんが、それが古い伝統であることは間違いありません。この献身は、初代教会ですでに(少なくとも、赤子のような状態で)存在したことは明らかです。以下は、聖務日課集の簡単な要約になります。

例えば神(イエス)の愛についてですが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)あります。三位一体の概念があるため、神の愛はイエスの愛でもあります。

またパウロの手紙は、神の愛と慈悲にふれています。

8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 (ローマ人への手紙5:8)

聖マルガリタ・マリアに現れたイエスの姿は、受難をうけ傷ついたイエスのこころと姿も象徴しています。このイエスの受難とイエスの受けた傷についての信心も、初期教会時代にはじまっています。

イエスの愛だけでなく、イエスの受難の傷も、初代教会では黙想と献身の対象となり始めていました。パウロの手紙には、以下のように書かれています。

7これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。(ガラテヤ6:17)

「イエスの焼き印」とありますが、これは伝統的に聖痕のことだと解釈されています。

4世紀の聖人、聖アウグスティヌス聖ヨハネ・クリソストモス(金口イオア)は、十字架にかけられたキリストとアダムを比較しています。アダムが眠り、脇腹からエバがとられたように、十字架にかけられたキリストは死の間「眠り」ながら、槍で脇を貫かれ、血と水が流れ出し、教会を誕生させたと説明しています。

イエスの聖心についての解説

私たちの主は、「わたしは心の柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい㊟」(マタイ11:29)(ドン・ボスコ社訳)と教えています。イエスの言葉のなかで「心」が使われていることから、イエスの聖心という概念は、イエス自身の時代にすでに存在していたと理解できます。

㊟新共同訳には「心」という言葉は入っていません。英語訳には “I am humble and gentle at heart”とあるようにHeart(心臓、心)の言葉が使われています。

聖書の言葉において、心臓は感情だけでなく、人間の内面や精神生活全体を象徴しています。ですから、イエスの心臓は、イエスの愛、慈しみ、知恵なども象徴しています。しかし、イエスの聖心は単なる象徴にとどまりません。

キリスト教の本質は、紀元1世紀初頭の少し前のある時、永遠の言葉である神が、肉体を持った人間になったということです。その人間は「イエス」と名付けられ、神であると同時に人であるからです。イエスの人間性を崇拝することは、神であるイエスの神性を崇拝することであり、両者は密接に結ばれています。言い換えるとイエスの聖心祭は、イエスの肉体、つまりイエスの体中に血液を送り出す心臓そのものを賛美し、礼拝することによって、神を賛美する日なのです。(ここまでが聖務日課集の要約となります)

キリスト教の興味深い部分は、霊である神を礼拝するだけではなっく、イエス・キリストの肉体も礼拝することです。私の知る限り、一神教を主張しながらも、実際の肉体である心臓を崇拝の対象とする宗教はキリスト教だけです。イエスの聖心は、人間には理解しがたい三位一体と深く関わる、神の神秘に満ちた祝祭なのです。

余談ですが、上記の「心臓」という言葉は、ギリシャ語でもヘブライ語でも、肉体の心臓を指します。さらに、肉体の心臓であるイエスの聖心礼拝をより深く理解するためには、父、子、聖霊の三位一体を知る必要があります。三位一体については、私には説明できませんので、ここでは割愛します。興味のある方は、小教区の司祭にお尋ねください。

イエスの聖心と12の約束

Chanted Litany of the Sacred Heart of Jesus in Latin | Litaniae Sacri Cordis Iesu (English Captions)

イエスは聖マルガリタ・マリア・アラコクに、イエスの聖心を信じる者に12の約束をされています。イエスの聖心への帰依を広めた聖マルガリタ・マリアは、聖刻を制定し、毎月第一金曜日に、地面にひれ伏して祈り、キリストの悲しみをわかちあいその日のうちに聖体拝領を行っていたと言われています。聖マルガリタ・マリアが第一金曜日に聖体拝領したように、イエスの聖心の信心は、9ヶ月連続で、毎月第一金曜日のミサに参加することで成り立っています。以下は、前述した12の約束となります。(英語訳から、できるだけ英語のもつニュアンスで、翻訳したものです。教会公式翻訳を知りたい方は、こちらのいつくしみセンター公式センターをご覧ください

  1. わたしはかれらの人生にひつようなすべての恵みをあたえる。
  2. わたしはかれらの家族に平和を与える。
  3. わたしは彼らのすべての悩みを慰める。
  4. 彼らはわたしの心の中に、生きている間も、特に死の間際で、確かな避難所を見出すであろう。
  5. わたしは、彼らがしているすべての活動に豊かな祝福を注ぐ。
  6. 罪人は私の心の中に、慈悲の(泉の)源と慈悲の無限の海を見出すであろう。
  7. 生ぬるい魂はあつくなる。
  8. 熱心な魂は、速やかに偉大な完成に至るであろう。
  9. 私は、私の聖心の姿が目にみえるところに掲げられ、尊ばれる家庭を祝福する。
  10. 私は司祭に、最も硬い心に触れる力を与える。
  11. この献身を広める者は、私の心にその名が記され、決して消えることはない。
  12. 連続して9ヶ月、最初の金曜日に聖体拝領するすべての者に、私の心の全能の愛は、彼らに最後の痛恨の恵みを与える。彼らは私の機嫌をそこない、秘跡を受けずに死ぬことはない。私の心は、最後の時に彼らの確実な避難場所となる。

12 Promises from the Sacred Heart of Jesus (catholicexchange.com) 

イエスの聖心に信心したJFKにあたえられた神の慈悲

アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、その悲劇的な死で有名です。しかし、彼の死に際にイエスの聖心の慈悲があったことは、ほとんど知られていないのではないでしょうか。ジョン・F・ケネディはカトリックの初代大統領ですが、スキャンダラスな彼の私生活知ると明らかなように、それほど敬虔なカトリック信者ではありませんでした。しかし、彼がまだ若かった頃、彼の母親は、イエスの聖心の献身である「9回の初金曜日の献身」の信心を行うようにさせていたと言われています。(12 Promises of the Sacred Heart of Jesus: Peace in Home and Life – YouTube)

1963年11月22日、ケネディ大統領が狙撃されました。彼は大急ぎで、近くの病院に運ばれました。そのケネディが運ばれた病院では、偶然にも、司祭が他の患者を見舞うためにいたのです。その司祭が偶然居合わせたことで、司祭は、瀕死のケネディに最後の秘跡を授けることができたのです。 (Could We Save JFK Today? | MedPage Today)

ケネディが病院に運ばれたとき、「大統領は無反応で、ゆっくりとした死戦期呼吸(心配停止直後にみられることがある呼吸)があり、触知できる脈や血圧もなかった」(Could We Save JFK Today? | MedPage Today)とあります。魂が肉体を離れるタイミングは、誰にも正確にはわかりません。しかし、私は、ケネディの魂はまだ肉体の中にあり、不思議な偶然によってイエスの聖心が約束した、最後の秘跡を受けることができたのではと思います。このような話を知るたびに、マザーTが書き留めた 「人の目には偶然でも、神の目には必然である 」という言葉を思い出します。

聖マルガリタ・マリア・アラコク:聖体のパンの中に隠されたイエス

 聖マルガリタ・マリアは、イエスの聖心を含む聖体パンを拝領することの重要性を強調しています。

「イエスは聖体の秘跡の中に見出されます。その秘跡の中で、イエスは愛によって生贄のように縛られ、父の栄光と私たちの救いのために常に犠牲となる用意ができているのです。イエスの生涯は、この世の目から完全に隠されているのです。彼らの目は、パンとぶどう酒の貧しく目立たない姿だけを見ることしかできないのです。イエスはつねに、祝福をされた聖体のなかに一人でおられます。私たちの敵である悪魔に大きな喜びを与えないよう、聖体パンの拝領をする機会を逃すことなく聖体拝領を行うようにしてください」-   聖マルガリタ・マリア・アラコク (See: MIRACLES-Mystics panels (santuariodesanjose.com))

聖体パンは、イエスの聖心を抜きにして語ることはできません。聖体パンはイエスの御身であり、心臓はその体の中心的で不可欠な部分であるからです。心臓がなければ、身体は生きることも、身体として機能することもできません。

6月には、多くの神秘的な祝祭日があります。聖体パンの祝日と聖心の祭日は、その中でも特に重要なものです。これらの祝祭日を祝うたびに、私はカトリック教徒であることをとても幸せに感じています。

Image: Two Angels with the Sacred Heart in Stained Glass

Source: The Anglican Breviary, Containing the Divine Office According to the General Usages of the Western Church, Put into English in Accordance with the Book of Common Prayer. New York, Frank Gavin Liturgical Foundation, Inc. 1955.

聖体の祝日:主イエス・キリストの至聖なる御身と御血

聖体の祝日おめでとうございます。

カトリックでは、今日(聖霊降臨後第2日曜日)は、主キリストの御身と御血である聖体パンを祝う日です。私たちの地元の司祭の聖体降臨祭の説教の中では、カトリックとプロテスタントの主流派との間には、「教皇」と「聖体のパン」という二つの大きな違いがあると指摘しています。私たちカトリックは、教皇は神が創った唯一無二の教会における、キリストの代理人であり、司祭によって聖別された聖体はイエスの御身であると信じているからです。

神からの啓示ではじまった聖体の祝日

リエージュのユリアナ(1192年頃-1258年4月)は、13世紀の修道女であり、神秘主義者でした。ユリアナは孤児で、5歳のころに修道院に預けられます。修道院での生活は、ユリアナに聖体に対する特別な畏敬の念を、抱かせるようになります。

1208年、修道女ユリアナにイエスが現れ、聖体を祝うための新しい典礼の祝日を、請願するよう告げます。しかしユリアナは、その幻視をすぐには長上には打ち明けず秘密にしていました。その後20年間、同じ幻視が続き、彼女の告解を聞いた司祭によって、ようやくリエージュの司教に伝えられることとなります。ユリアナ自身もドミニコ会と司教に、聖体の祝日を願い手紙を送りました

1246年、ユリアナの手紙を受け取った司教は、リエージュの教区で聖体の祝日を制定しました。同教区のジャック・パンタレオン助司祭は、この新しい祝祭を非常に感動的なものと感じ、正式な教会暦に加えることは極めて大切である、と考えました。

1264年、ジャック・パンタレオン助司祭はローマ教皇ウルバヌス4世(c. 1195 – 2 October 1264) となり、同年、聖体祝日の日を全教会の祝日として制定したのです。

聖体の祝日の典礼の作者:聖トマス・アクィナス(1225-1274)

聖体の祝日が制定されたとき、ウルバヌス4世はトマス・アクィナスに、新しい祝日の祈りとミサ典礼の作成を依頼しました。トマス・アクィナスが、この日のために書いた賛美歌のひとつ「アドロ・テ・デボーテ」は、メロディが与えられ、今日まで聖体の祝日のミサで歌い続けられています。

Adoro Te Devote, Sisters of Aquinas -Sisters of Aquinas

アドロ・テ・デボーテ(Adoro Te Devote)

パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられる神よ、謹んで御身を礼拝いたします。

御身を見つめながらも全く見通す力のない私は、心のすべてを委ねます。

今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、御身を認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。

神の御子の言われたことは、何事であれ信じます。この真理の言葉にまさるまものは、世にないからです。

十字架上では神の本性だけが隠れていましたが、ここではその人性も隠されています。

主にある二つの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことを私もお願いします。

私はトマのように御傷を見なくても、御身が私の主であることを宣言します。

どうか、私がますます深く御身を信じ、御身に希望し、御身を愛することができますように。

主のご死去の記念として、人に命を与える生きたパン。

私の心を御身によって生かし、甘美な御身を常に味わわせてください。

優しいペリカン、主イエス、どうか、汚れた私を、御血をもって清めてください。

御血の一滴だけで、世のすべての罪を償うことのできる御方。

今は隠れていますイエス、乾き望むものをお与えください。

覆いを取られた御身の顔を見出し、御身の栄光を目にする幸いな者となりますように。アーメン。

St. Thomas Aquinas.  (出典:使徒聖ヨハネカトリック小金井教会)

聖体パンの神秘:実体変化

聖書の中で、イエスは「いのちのパン」である聖体について、ご自分の体と血であると語っています。使徒たちにとって、イエスの言葉は最初は理解しがたいものでした。そして復活後に初めて、イエスの言葉の意味を知ったのです。

聖体パンがキリストの御身(体)になる、と信じるのはカトリック教会と東方正教会の教えです。けれども、東方正教会の教えでは神の神秘は理解できない、とされています。では、西方教会、すなわちカトリック教会の教えでは、聖体のパンの神秘はどのように説明されているのでしょうか。

イエスの御身である聖体パン

26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイ26:26)

カトリック教会の教えでは、ミサで司祭が「これは私の体である」とキリストの言葉を語るとき、司祭の言葉を通して語っているのは、言葉であるキリストです。司祭が語ったその瞬間、神の言葉は司祭を通し実現されます。そして祭壇のパンはイエス・キリストの御身、御血、霊魂、神性になると信じられています。

この神秘は、神学者たちによって、議論されてきました。そして、アリストテレス哲学を用いて、「実体変化」と定義されてきました。この「実体変化」を理解するためには、アリストテレス的な 「実体」と 「偶性」というカテゴリーで考える必要があります。簡単に言うと、「実体」 はあるものが何であるかを示す名詞で、「偶性」はそのものを形容する形容詞となります。

祭壇のパンの場合、聖別前のパンは「薄く、白く、丸い、パン風味のパン」であると言えます。この場合の実体は名詞の「パン」であり、偶性は形容詞の「薄い、白い、丸い、パン風味」、その他パンを表現するのに使われる、あらゆる形容詞となります。実体変化とは、実体が変化することであり、偶性は変化しないということです。ですから、聖別後の聖体パンは、「薄く、白く、丸く、パン風味のキリストの体 」となるのです。

この実体変化という神秘のおかげで、私たちがミサで口にする聖体パンは、血のついた肉片ではない、ということになります。

命のパンで決して飢えない

35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

キリスト教についてほとんど知らなかった私が、数ある教派の中でカトリックに強く惹かれたのは、カトリックの秘跡の一つである「聖体パン」でした。カトリック教会で聖体拝領を受ける信者の姿を見て、自分も聖体を受けたいと思うようになったからです。けれども洗礼を受けるために教会の聖書講座に通い始め、洗礼の準備に数ヶ月かかると知り、本当にがっかりしました。お腹が空いているのに、食べ物がないまま放置されたような気分になったからです。その後、洗礼を受け、聖体パンをさずかり、身も心も不思議と満たされたような気がしました。

それ以来、洗礼前のような飢えを感じることはなくなりましたが、パンデミックの時、教会が一般信徒のためのミサを祝わなくなり、以前感じていたような飢えを感じるようになりました。正直なところ、オンラインミサは、実際のミサに参加するより楽で喜んでいました。しかし、その時、言葉で説明するのが難しい飢えが戻ってきたのです。聖体の神秘に対する私の信仰は、当初は深いものではありませんでしたが、精神的な飢えを感じるようになったとき、聖体が私の心身をどれほど満たしてくれていたかを初めて実感したのです。

大切な聖体パンを拝領するために

カトリックでは、ミサと聖体の重要性を強調しています。

聖 ピオは、「ミサがないよりは、太陽がない方が世界が存在しやすい 」と言うほど、ミサと聖餐式を愛していました。パドレ・ピオの例は、聖体がいかに重要であるかを示しています。数多くのカトリックの著者であるボブ・ロードとペニー・ロードはパドレ・ピオについて以下のように書いています。

「ピオ神父は…聖体における私たちの主イエスと生涯にわたって愛を育んでいたのです。彼にとって、聖体はすべての霊的恩恵の中心でした。それは魂の生命の息吹であったのです。… 司祭叙階後、彼はミサの奉献に長い時間をかけ、パンとぶどう酒が主イエスの御身と御血となるのを前に恍惚とした表情で時間を過ごすことに教区民から苦情が出るほどでした。」(Saint Padre Pio – devoted to the Eucharist and Mary

私たちはおそらく、ピオ神父のようにミサで主の受難を見ることはできませんが、彼の経験は、ミサが単なる儀式ではない、非常に大きな超自然的な出来事であることを教えてくれています。聖グレゴリウス1世もミサ中に、主の受難を目撃したと言われており、聖別された聖体パンが、イエスの体であることを明確に示す聖体の奇跡は数多く存在しています。

私の教区の司祭は説教の中で、聖体パンを受ける前に告解する必要性を強調しています。さらに聖体に対する信仰の必要性については、「信じていないのなら、聖体パンを拝領してはいけない」と言われました。また、何世紀にもわたって行われてきたように、聖体パンを舌で受けることを推奨し、どうしても手で受けたいという人には「受けたらできるだけ早く聖体パン拝領してください」と呼びかけました。最後に、聖体拝領の後に、感謝の祈りを捧げることを忘れないようにと、アドバイスしています。

パドレ・ピオは聖体パンを拝領した後、感謝をささげ以下のように祈っています。

「聖体拝領が闇を払う光、私を支える力、私の心の唯一の喜びとなるように、パンを裂くときに弟子たちがしたように、私があなたを認めることができるようにしてください。」(Padre (Pio prayed this prayer after receiving Holy Communion from Aleteia より抜粋)

あなたの聖体の祝日と聖体の祝日の一週間が、神の恵みで満たされますように。

image: Eucharist, painting on the church altar

聖ジャンヌ・ダルク:オルレアンの乙女(1)

フランスの国民的英雄であるジャンヌ・ダルク(1412-1431年頃)は、1920年、ベネディクト15世によりカトリックの聖人として列聖されました。彼女の祭日は5月30日(地域によっては5月31日)です。ジャンヌのドラマチックな人生は何度も映画化、書籍化されていますから、彼女がどのようにフランスを救ったかを聞いたことがある人も多いでしょう。捕らえられ火刑に処さられてから約600年経ちましたが、ジャンヌは、今もなおフランスだけでなく世界中の人々を魅了し続けています。

ジャンヌの生きていた時代の歴史的背景

ジャンヌの時代のフランスは、強い政治的権力をもつ王のもとで急速に発展していました。けれども同じように王権の力が強化されたイギリスでは、エドワード3世が、母がカペー朝出身であるということを理由に王権を主張し、100年戦争(1337-1453)がはじまります。さらに、ブルゴーニュ公フィリップ3世とヴァロワ王シャルル7世は、100年戦争の間、フランス領土の支配権をめぐって争っていました。

ドムレミ村での生活:予知夢を見たジャンヌの父

ジャンヌがまだ幼い頃、父親はジャンヌに関する夢を見た。父親が見たのは、娘が軍隊と一緒に旅をしている姿だった。目が覚めたとき、彼は彼女の兄弟たちに、もしこんなことがあったら、彼女を溺死させるよう頼み、彼らが拒否したら自分がやる、と言った。(Mary Gordon, Joan of Arc: A Life)

ジャンヌ・ダルクは、おそらく1412年1月6日の公現祭に生まれたと思われます。父はフランス北東部のドムレミ村の農民であったジャック・ダルク、母はイザベル・ロメで、ジャンヌは敬虔なカトリック教徒として育てられます。彼女は自由時間があると、そのほとんどを教会で過ごしていたそうです。またジャンヌの事を知る司祭が伝えたところによると、彼女は告解によく来る少女だったそうです。(SAINT JOAN OF ARC

もし、ジャンヌが公現祭に生まれたとしたら、興味深い事実です。公現祭は、賢者が贈り物を持ち、王であるキリストに捧げに行った日だからです。神の導きを受けドムレミ村から、王太子に王冠をさずけるため、シノンに向かうことになるジャンヌの人生を象徴しているかのようです。父親の夢、そして彼女の生まれた日など、ジャンヌに関する不思議な神の導きは、すでに始まっていたようです。

不思議な声に導かれたジャンヌ

1425年、ジャンヌが13歳頃のことです。

ブルゴーニュとイギリスの軍隊がドムレミ村から家畜を追い払うと、教会を略奪し、焼き払いました。同じ年のある夏の日、ジャンヌは、家の庭ではじめて不思議な声を聞きます。はじめは恐れをいだいたジャンヌですが、後にその声は本物で、自分を導くために神が遣わしたものだと信るようになります。(SAINT JOAN OF ARC

ヨハネ14:21にわたしを愛する人は、わたしの父に愛される、とあります。ジャンヌの神への深い愛ゆえに、神は彼女に特別な恩恵を与えました。その恩恵とは、フランスに奇跡的な勝利をもたらす戦いに彼女が赴くことだったのです。

シャルル7世に謁見したときの不思議な逸話

1428年、ジャンヌは王太子(フランスの王位継承者)に謁見するために、地元の軍司令官ロベール・ド・ボードリクールに協力を求めました。彼女は、王太子をフランス王として戴冠させるという、神から受け取ったメッセージを伝えたいと考えていたからです。

はじめは相手にされなかったジャンヌですが、1429年2月12日のルーヴレイの戦い(ヘリングスの戦い)でフランス軍が敗北することを預言し、高官の信頼を得ることに成功します。そしてついに、聖ミカエル、アレクサンドリアの聖カタリナ、アンティオキアの聖マルガリタから託された使命を果たすべため、フランス王太子シャルル7世にシノンで謁見を許されたのです。

当時、王太子は、戴冠式よりも戦いのほうが重要だとかんがえていました。その理由のひとつは、伝統的な戴冠式会場であるランスが敵地にあったからです。ジャンヌに会うことに気のすすまなかった王太子は、彼女に見つからないように廷臣の中に隠れていました。

ところが、思いがけないことが起こったのです。ジャンヌは隠れている王太子をすぐに見つけだしたのです。そして臆することなく、オルレアンを解放しランスに進軍し、そこで王太子を戴冠させるという、神から与えられた彼女の使命を告げたです。

神から託された使命を王太子に伝えたこの逸話からは、ジャンヌの信仰の強さが印象づけられます。この時代、女性が人前で発言できる数少ない機会のひとつが、神から与えられたメッセージを語るときでした。このような社会的背景を考えると、ジャンヌが本当に、神の声に従っていると信じていたことが理解できます。

ジャンヌと聖人たちとの共通点とは?

ジャンヌと彼女に現れた聖人たちと間には、偶然とは思えないような共通点が見られます。たとえば、アンティオキアの聖マルガリタは、男装して修道院に入った女性で、犯してもいない罪のために洞窟に幽閉された聖人です。ジャンヌも男装して魔女とみなされ、投獄されています。 メアリー・ゴードン著『ジョーン・オブ・アーク:ア・ライフ』の中で、三聖人が剣を持って表現されているように、ジャンヌは女性でありながら剣を取り、戦ったことに触れています。

1429年5月8日:神の名のもと勝利したオルレアンの戦い

1429年4月初旬、シャルル7世はジャンヌに軍の指揮を任せました。彼女は鎧と剣を手に入れると、イエスとマリアが描かれた旗を作らせます。そして、パリから南西に74マイル離れた城壁都市オルレアンに向けて出発しました。

このとき、オルレアンの軍司令官であるデュノワ公は、戦闘経験のないジャンヌに助言を与えていました。しかし彼女は、主の助言は彼よりも安全で賢明であり、聖ルイと聖シャルルマーニュの取次により、主はオルレアンを悲惨と抑圧から解放してくださると説きます。

さらにジャンヌは、反対する軍隊の隊長たちを説得し、神の導きに従ってトゥーレル砦を攻撃しました。この戦いでジャンヌは傷を負いながらも、大勝利を収めます。実は、彼女は自分が戦場で負傷することを事前に予見していたことが記されてます。それにもかかわらず、迷うことなく戦場に向かったのです。

橋が落ちることを予見していたジャンヌ

「勇気を持って!後退するな。もう少しで、その場所はあなたのものになる。見ていなさい!風が私の旗を防波堤に吹き付けるとき、あなたはそれを手にするのだから!」オルレアンの橋の攻防で、共に戦う兵士たちにジャンヌが言った言葉です。(In her own words | Joan of Arc | Jeanne-darc.info)

橋の襲撃の際、彼女は、壊れた石橋の隙間に架けられていた仮設の木橋が長くはもたないことを予見していました。ジャンヌは、彼らへ戦いを挑むため、その木橋を渡ろうとしていたイギリス軍に止まるよう警告しています。しかし、イギリス軍は彼女の忠告を誤解し、ジャンヌたちが自分たちを恐れていると勘違いしました。彼らは前進を続け、木製の橋はイギリス軍の重さに耐え切れず落下し、重い鎧を着ていた彼らは溺死してしまったのです。言うまでもなく、イギリスにとってこの不幸な出来事は、フランス軍を優位に立たせることになります。 (この戦いについては、こちらのビデオで詳しく解説しています。)

そしてついに、フランス軍はオルレアンの奪還に成功します。この勝利は、フランスにとって100年戦争の大きな転機となりました。それ以来、彼女は 「オルレアンの乙女 」として知られるようになったのです。

ジャンヌ最愛の旗

ジャンヌは戦場で戦うより、兵士を鼓舞するために旗を持っていたようです。旗は、戦場の混乱の中で、味方の兵士を結集させるためにも重要でした。

1431年の裁判では、ジャンヌの旗に関する記述が残っています。

「私には旗があり、それを戦場で掲げていました。その旗には百合の絵が描かれていました。そこには世界を抱くキリストの姿があり、キリストの両脇には天使がおかれていました。ブカサンと呼ばれる白い布で、その上にはイエズス・マリアと書かれ、私にはそう(書かれているように)見えたのですが、そしてそれは絹で縁取られていました。」(Banner | Joan of Arc | Joan-darc.info).

ジャンヌは剣よりも、イエスとマリアが描かれたこの旗を気に入っていたと伝えられています。残念ながらこの旗は、フランス革命の際の火事で焼失しています。

聖ジャンヌの神への熱烈な信仰

10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。

11見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆
恥を受け、辱められ
争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。

12争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず
戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。

— イザヤ 41:10-12      

神によってもたらされた彼女の功績は、イザヤ書の記述のようです。これまで私は、イザヤ 41:10-12  の語る内容は、男性にふさわしいような印象を受けていました。ジャンヌの功績を知ると、男性だから、女性だからという性の限界は幻想のように感じさせられます。

メアリー・ゴードン著『ジョーン・オブ・アーク:ア・ライフ』によると、ジャンヌと出会った人々は、それまでできなかったことができるようになり、自分が変化したと感じたといわれています。彼女の強い信仰心と熱意、そして神への絶大な信頼は、周囲の人々を鼓舞し、恐怖から解放したのではないでしょうか。

いずれにしろジャンヌは、最終的に、神の栄光という勝利を手にします。彼女を裏切り、処刑人のもとに送り込んだ人々は滅びましたが、ジャンヌは聖女ジャンヌとなり、今日も人々にインスピレーションを与え続けているからです。

1429年6月18日:パテーの戦い

オルレアンの戦いで勝利を収めたジャンヌは、すぐに王太子に勝利を報告すると戴冠式を行うよう促しました。しかし、伝統的な戴冠式の場所であるランスに到着するためには、パテーでイングランド軍を撃破する必要があったのです。ジャンヌは、ここでもフランス軍の大勝利を約束しています。そして、その言葉通り、パテーの戦いはフランスの圧倒的な勝利で幕を閉じたのです。

一方、ジャンヌはこの悲惨な戦争の現実を目の当たりにし、衝撃を受けたと言われています。ジャンヌが戦場で瀕死のイギリス兵の頭を抱え、死に際の告解を聞いたという話は、この事実を実証する逸話として後世に語り継がれています。

パテーの戦いで起きた幸運

戦いに勝利するきっかけとなった出来事は、森から突然鹿が飛びだしたことでした。イギリス兵が歓声を上げ、彼らの場所を知ったフランス軍が、奇襲攻撃で長弓隊を撃退できたからです。

当時のイギリス軍の戦力であった長弓隊は、フランス軍に甚大な被害をもたらしていました。ジャンヌの時代には、人々の記憶に新しかったはずの1415年のアジンコートの戦い(アジャンクールの戦い)では、数でも装備でもはるかに優勢であったはずのフランス軍が、ヘンリー5世の機知に富んだ戦略と長弓隊の激しい攻撃になすすべもなく敗北しています。

アジンコートの戦いで、兵を森に隠したヘンリー5世は、「どんな状況でも音を立てるな 」と軍に命じています。もしパテーの戦いで兵が声を上げなければ、イギリス軍は成功する可能性が高かったでしょう。当時のイギリス軍の強さを知れば、神の助けがなければ、フランス軍が戦いに勝利することは難しかったと考えることができるからです。一方、オルレアンの戦いが神の介入としか思えない不思議な出来事ばかりであるのに対し、パテーの戦いはそのようなことはなかったといえます。

パテーの戦いにおいて、フランス軍の勝利は、聖ジャンヌの祈りに応えた神の介入によるものなのか、フランス軍の戦略と武力によるものなのか、単なる偶然の産物なのか、それぞれの貢献度を正確に測ることができるのは、神のみだと言えます。

ロワール渓谷におけるジョアンとその部下たちの作戦:
6月10日にジャルジョーを占領、13日にオルレアンに再突入、15日にムングの橋を占領し、16日にボーガンシーを占領。そしてパタイでの輝かしい勝利で幕を閉じました。

Image: The Maid by Frank Craig

(2)へ

(3)へ

聖霊降臨祭おめでとうございます!

聖霊のお祝いであるペンテコステ(聖霊降臨祭)が始まりました。聖霊は、風、火、鳩に象徴されます。ペンテコステでは、聖霊が、私たちに祝福をもたらしてくださるよう祈ります。

中世ヨーロッパでは、聖霊降臨の1週間をリラックスして過ごし、ペンテコステを祝ったと、司祭の説教で知りました。現在でも、多くのカトリック国では、ペンテコステ翌日(ホイット・マンデー)は国民の休日となっています。今年は偶然にも、アメリカでもペンテコステの翌日が、メモリアルデーなので、こちらもホイット・マンデーが祝日となります。

教会のはじまりと聖霊の異言

紀元33年ののペンテコステは、教会が始まった日です。集まった使徒たちに聖霊が恵みを与え、神が認める唯一の教会であるカトリック教会が誕生した日です。

Factus est repente (Gregorian Chant) (Chorał gregoriański)

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒2:1-4)

聖霊の恩恵は、火の舌で象徴され、外国語でも一瞬にして話せ、理解できるようになったとあります。この時、使徒たちが奇跡により話した言語は、その場にいたその言語を母国語とする人々に理解されたのです。

ペンテコステで聖霊が降臨した後も、異言を話す習慣(ギリシャ語では「グロッソラリア」)は、初代教会のある場所で続いていました。聖パウロはⅠコリント14章で、この話題についてふれています。

初代教会におけるグロッソラリアという現象が、具体的にどのようなものであったかは、現在では確かなことは分かっていません。ある人は、このような場合に話された言語は、神と天使以外にはまったく理解できないと考え、またある人は、異言の話者が、学んでいない外国語で話したが、それを聞いた他の人はそれを認識できたと考えています。おそらく、どちらか一方のケースである場合もあり、もう一方の別のケースだった場合もあったのではないでしょうか。

聖霊の7つの賜物

伝承によれば、聖霊には7つの賜物があります。以下はイザヤ書11章1~3節からの引用です。

聖霊の7つの賜物

1イエッサイの株からひとつの芽が萌えいで

その根からひとつの若枝が育ち

2その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊

思慮と勇気の霊

主を知り、畏れ敬う霊。

3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず

耳にするところによって弁護することはない。

(イザヤ 11:1-3)

つまり、聖霊の7つの賜物とは—

  1. 知恵
  2. 識別(理解)
  3. 思慮(良いアドバイスを伝える、受け入れる)
  4. 勇気( 不屈の精神)
  5. 知識
  6. 敬虔さ
  7. 主への畏れ

イエッサイとはダビデの父で、ユダヤ人の最後の王であるイエス・キリストを含め、すべてのユダヤ人の王は彼の子孫です。「その上に主の霊がとどまる」とは、イエッサイの子孫は聖霊の祝福を受けるという意味です。

このイザヤの預言はイエスの洗礼(マタイ3:16)で、成就されています。

「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」

聖霊と赤いバラの花びら

Climbing the Pantheon’s Dome on Pentecost – EWTN Vaticano

ペンテコステでは、ミサの際、信徒への手紙と福音の間に「ベニ・サンクテ・スピリトゥスー聖霊きてください」を歌唱しますが、その時に、教会の天井からバラの花びらを撒くという伝統的な習慣があります。このバラの花びらで祝う方法が、いつから始まったのかは不明ですが、聖書に登場する「火の舌」を象徴していると言われています

歴史と品格を備えたサンタマリア・アド・マティレス(=ローマのパンテオン)では、優美なミサにあずかることができる日です。サンクタ・マリア・アド・マルティレスでは、バラの花びらがペンテコステの象徴的な色であることから、毎年、聖霊降臨の日に人々は天井からバラの花びらを撒いています。空から降ってくる赤いバラの花びらは、何とも言えない美しさがあります。サンタマリア・アド・マティレスは、ペンテコステの日に、一度はミサにあずかってみたい場所です。

聖霊がもたらす平和と自由: 聖ホセマリア・エスクリバー

こちらの記事 (The secret to spiritual freedom and peace, according to St. Josemaria Escriva –Aleteia)でも解説していますが、オプス・デイの創設者である聖ホセマリア・エスクリバーは、神の愛のために自分を否定し、あらゆる利己主義と誤った安心から自分を切り離してこそ、平和と自由を経験できると説きました。この体験は、キリストが私たちのために勝ち取った恩恵であり、聖霊によって私たちに与えられる、と語っています。

記事の著者はさらに、「次に座って祈るとき、霊的自由から自分を遠ざけているものは何か、あなたが待ち望んでいる平安を見つけるためには、どんなことを『否定』する必要があるのかを考えてみてください 」と問いかけています

これは、私にとって耳の痛い言葉です。自分の生活を振り返ってみると、自分の意志、言葉、行いが神様の意志にそぐわないことがよくあるのです。特に、自分自身を捨てることは、難しいと感じています。

聖霊は思いのままに吹く

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)

この聖書の言葉を読むと、いつも、聖霊が与えてくれる自由の素晴らしさを想像します。聖霊の恵みにより、この世の執着から解放され、霊的な自由を生きることができれば、そこには、風が吹き抜けるような爽快感があるのだろう、と感じるからです。

世俗への執着から解放され、自由な精神で生きることができるよう、聖霊の恵みを祈りたいと思います。

聖霊の週が、恵みに満ちたものでありますように。

image: The dove of the Holy Spirit-stained glass by Gian Lorenzo Bernini in 1660 in the apse inside St. Peter s basilica in Rome

ファティマの預言: 聖母の明かした三つの秘密(2)

ファティマの聖母は6回出現されており、ルシアに伝えられた聖母のメッセージは、カトリック教会では3つの秘密と呼ばれるものが含まれていました。アンドリュー・アポストリ司祭は、『今日のファティマ』のなかで、7月(第一の秘密)と10月の出現で明かされた秘密は、特に重要なものであると指摘しています。(Fatima for Today,p53)

第一の秘密-地獄の幻影(地獄が実在すること)

この秘密が3人の子供たちに明かされたとき、彼らは地獄の幻影を見ました。

「聖母は私たちに、人間の魂が苦悩と絶望の中で叫んでいる火の海の幻影を見せました。透明な人の形をした魂は、奇怪で見たこともないような動物の姿をした醜悪な悪魔たちとともに地底に永遠に閉じ込められていたのです。」 ( Wikiwandより要約)

聖書は、地獄が実在することを教えています。そして、神に背いた者が悔い改めない場合に行く場所である、地獄を描写した箇所がいくつかあります。 

例えば、『ヨハネの黙示録』には、地獄の炎に投げ込まれる死者の魂について書かれています。

「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:14-15)。

マルコ9:47-48で、私たちの主は次のように言っています。

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

この場合、主はイザヤ書66章24節を引用していますが、同じ記述がありながら、それが地獄を指しているとは明言していません。つまり、マルコ福音書の一節は、イザヤ書で暗示されているだけのことを明確にしているのです。ユディト記(続)16:17とシラ書7:17(続)も、悪人の刑罰を 「火と蛆(うじ)」と表現しています。

さらに私たちの主は、永遠に地獄に閉じ込められることを警告しています。

「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ25:41、46)。

子供たち、特にフランシスコとジャシンタは、この地獄の幻を見た後、罪人の救いのために度々苦行をするようになりました。ジャシンタは、流行を追いかけようとする人たちに、「人は永遠の意味を理解すれば、自分の生き方を変えるために何でもする。永遠の主に従う教会は、流行とは無縁だ。」と訴えています。

同様の地獄の幻影を見た聖ファウスティナ

ポーランドの幻視者である聖ファウスティナ(1905-1938)も、、神により、地獄が実在することを証明するため地獄を見せられました。彼女が描いた恐ろしい幻影は、ファティマの子供たちが見た幻影と似ています。彼女は、幻視で見た地獄の炎を、恐ろしい苦しみをもたらす永遠の霊的な炎と表現しています。さらに、罪人が悪魔と共に、暗闇と、ひどい窒息臭の中で、永遠の苦しみに閉じ込められているのを見たと語っています。

恐らく多くの人々は、地獄に落ちるのはひどい罪を犯した人々だけだ、と考えているのではないでしょうか。実は、それほど単純ではありません。聖ファウスティナは地獄に落ちた多くの魂は、生前地獄を信じていなかった人々であった、と伝えています。地獄の存在を信じていなければ、神に対して罪を犯し、悔い改めることなく死んでしまう危険性が高くなるからです。

「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(Ⅰコリント6:9-10)

神の国を受け継ぐことができない、つまり罪を犯したことに十分に気づかない、気づいても何もしない人は地獄へと落ちる確率が大きくなります。私は告解に行くかどうか悩むときがありますが、告解後、実は罪に鈍感になっていただけであった、と気づくことが度々ありました。

ファティマの聖母が強調されたように、悔い改め、神に立ち返り、許しを請い、神と和解すること、それこそが魂を救いに導きます。この事実と、地獄の現実に対する聖母の重大な警告は、真剣に受け止める必要があります。なぜなら、私たち人間は罪を犯し続ける生き物であり、地獄は、罪を犯したまま死んでいく者の行き着く先だからです。

第二の秘密 – 現代社会を形成する最も重要な出来事と動きについて

『第二の秘密』は2つのパートに分かれています。

聖母は、魂を救い、平和をもたらすために、無原罪の御心への奉献を確立することを望んでおられます。聖母は、戦争、飢饉、教会への迫害を防ぐために、ロシアがが無原罪の御心に奉献し、五つの第一土曜日に献身するよう求めています。その願いが聞き入れられるならば、ロシアは回心し、平和が与えられるでしょう。 (Wikiwandより要約)

第1部 

願い:無原罪の聖母マリアへの奉献と祈り。
預言: 第一次世界大戦の終結。
警告と予言: もし罪人が十分にしないなら、教皇ピオ11世の時代から再び世界大戦が起こる。

第2部:ロシア語の奉献と無原罪のマリアへの献身

願い:第一土曜日のファティマの聖母への献身。
予言: 多くの場所で飢饉が起こる。
警告と預言: もし教皇が全司教団と協力し、ロシアを無原罪のマリアの御心に奉献するなら、世界に平和が訪れる。そうでなければ、ロシアの誤りは世界中に広がり、カトリック教会への迫害につながる。

第二の秘密の第1部に関する聖母の預言は、第二次世界大戦に関する預言であったため、すでに成就しています。しかし、第2部の預言は、さらなる戦争を預言しているようで、それはこれから起こる未来である可能性が考えられます。

7月13日: 封印された第三の秘密

シスター・ルシアは聖母マリアから、時が来るまで第3の秘密を誰にも明かさないように、と警告を受けていました。そのためシルバ司教から、第三の秘密を文書で残すように言われたルシアは、どうすれば良いのか悩んでいました。

1944年1月、聖母マリアがルシアの前に現れます。

聖母マリアからルシアは「秘密の意味を理解したまま書き留めてはいけません。ただ、あなたが見たとおりに秘密を記述しなさい 。」と伝えられました。
ルシアは聖母の言葉に従い、第三の秘密を書き記し、その封書をシルバ司教に渡しました。その時、ルシアはシルバ司教に、ルシアの死後、もしくは遅くとも1960年には第三の秘密を開示するようにと頼みました。

1957年、シルバ司教は封印されたままの手紙をローマに届けます。しかし、1960年になっても、第3の秘密は開示されませんでした。

2000年、バチカンはついに第三の秘密を公開しました。2000年まで公開されなかったのは、ローマ教皇の暗殺を予言する内容だったからだと言われています。

第三の秘密:殺された司教

Wooden cross on the top of the mountain on sunset

第三の秘密における幻視は次のようなものでした。

聖母の左側、やや上方に、左手に炎の剣を持った天使が飛び、大声で「懺悔、懺悔、懺悔!」と叫んでいる。

幻の中では、数人の司教、司祭、修道士、修道女が、白衣を着た司教(おそらく教皇と思われる)とともに、頂上に粗末な十字架のある険しい山道を登っている。白い服を着た司教は、苦悩と悲しみの中で死者のために祈りながら、廃墟と化した大きな町を震える足取りで通り過ぎていく

山の頂上に到着した司教は、十字架の前にひざまずいて祈ったが、数人の兵士に殺されてしまった。司教、司祭、修道士、修道女、平信徒など、さまざまな身分の者が次々と殺され、そこで息を引き取った。十字架の両腕の下には、それぞれ水晶のアスペルソリウムを手にした2人の天使がいて、殉教者の血を集め、神への道を歩む魂に水をかけていたWikiwandより要約)

この幻の中の司教(教皇)は、1981年の5月13日(ファティマの聖母の祝日)に暗殺されそうになったヨハネ・パウロ2世を表していると考える人もいるようです。一方、教皇聖ヨハネ・パウロ二世は暗殺未遂から生還したのに対し、この幻の司教は生還しませんでした。『第三の秘密』に描かれた司教は特定の個人ではなく、象徴的な人物である可能性も高そうです。

多くの人が『第三の秘密』には公開されていない部分があると考えています。また、第一の秘密と第二の秘密には、それぞれ聖母の幻視と言葉による解説が含まれていますが、第三の秘密(バチカンによって公表されたもの)には、幻視のみが含まれており、解説はありません。

第一の秘密と第二の秘密のヴィジョンについて解説した後、なぜ聖母はこの難解な第三のヴィジョンについて解説をしなかったのでしょうか。そして、もし第三の秘密が単なる幻視(おそらく教皇の暗殺を示すもの)であったなら、なぜ1960年以降も秘密にされたでしょうか。

実はシスター・ルシアが『第三の秘密』を、2通の別々の文書に記録したという証拠もあるのです。 (さらに詳しくお知りになりたい方は、こちらの本をご覧ください。 Chapter 13 of the book The Devil’s Final Battle, by Fr. Paul Kramer.) 第三の秘密については、知れば知るほど、バチカンがその全貌を明らかにしたのかどうかが疑わしくなってくるのです。

10月13日:太陽の奇跡

歴史上初めて、預言者、もしくは先見者は、受け取ったメッセージが神からのものであることを証明するために、公共の奇跡を目撃するために、特定の場所と時間にすべての人々に集まるように求めていた。 (Fatima: The Great Sign by Francis Johnston) 。

10月13日、信者も信者でない人々も聖母の奇跡を目撃するために、ファティマのコバ・デ・イリアに集まりました。おおよそ4万人から8万人くらいが集まったと言われています。(正確な数は不明)この日は、前日から降り続いた雨で人々は雨に濡れ、地面はぬかるみ、どろどろの状態でした。

聖母マリアの出現を待ち、出現した小さな木の前で祈っていたルシアは、ふと自分の中に湧き上がる衝動を感じ、集まった人々にロザリオを祈るように告げました。人々がロザリオを祈り始めると、聖母マリアが3人の子どもたちに現れました。ルシアが聖母に何をしてほしいか尋ねると、聖母は「私はロザリオの聖母です。どうかここに教会を建ててください。毎日ロザリオを祈りなさい。やがて戦争が終わり、兵士たちが帰ってきます。」と答えました。

さらに、集まった人たちの癒しについて尋ねたルシアに、「癒される人もいれば、癒されない人もいるでしょう。人々は悔い改め、生き方を変える必要があります。」と伝えました。聖母は、また、これ以上主なる神を怒らさないことを警告しました。

これらのメッセージを伝えた後、聖母マリアは両手を開くと太陽の光を反射させ、天に昇っていきました。ルシアは、「太陽を見て!」と群衆に叫びました。その瞬間人々は、雲が開き、雨が止み、太陽が奇跡的に回転し、ジグザグに動き、急降下してくるのが見えたのです(Fatima for Today, p. 114) 。さらに不思議なことに、目撃者は、太陽が明るく輝いていたにもかかわらず、それを見ていた人々の目を痛めることはなかったと証言しています。 (Fatima for Today, p. 113)

太陽の奇跡を証言した自然科学教授

コインブラ大学の自然科学教授であるゴンザロ・デ・アルメイダ・ギャレット博士も、太陽の奇跡を目撃するためにそこにいました。この奇跡では、色とりどりの光が、ある人には見えたが、ある人には見えませんでした。ギャレット博士は、奇跡が起こったとき、周囲がアメジスト色に染まっていたことを証言しています。

太陽ははっきりと強く輝き、まるで光る円盤のようで、その縁はきれいに切れていて、目を痛めることはなかった。一方、太陽を鈍い銀色の円盤に例えることには反対である。太陽現象で大気がアメジスト色に染まり、空も大気も、周りのものもアメジスト色に染まっていた。網膜の異常かと心配したが、その場合、紫色は見えないはずである(Aleteiaより要約)。

しかし、3人の子供たちが見たのは、踊る太陽ではなく、聖母マリア、聖ヨセフ、ロザリオの秘儀、カルメル山の聖母の幻影でした。すべての奇跡が終わった後、人々の服はもちろん、地面までもが完全に乾いていたのです。

私は、この太陽の奇跡は、神の奇跡を体験しなければ回らない人々のために行われたのだと信じています。

第3の秘密はいつ成就するのか?

ニコラス・グルーナー神父(1942-2015)は、「第3の秘密は完全には明らかにされていない。」と考える人物の一人でした。

Fr. Gruner on the Message of Fatima/ Your Last Chance Conference/ May 2012

1931年、私たちの主がシスター・ルシアに現れました。ロシアの回心が成されなければ、世界に、大きな災いが降りかかると再び警告されたのです。

このビデオでは、グルナー司祭が聖マルガリタ・マリア・アラコクの預言を用い、ロシアの回心が成されない場合、神の裁きがどのようなタイミングで行われる可能性があるかを説明しています。

1689年6月17日、聖母マリアはマルガリタに現れました。マルガリタその後、聖母がフランス国王に「どうか、フランス国をイエスの聖心に奉献するよう伝えてください。」と頼んだことを伝えました。しかし、三代にわたるフランス国王は、聖母マリアの言葉を蔑ろにし続けました。そして、予言からちょうど100年後の1789年6月17日、フランス国王は第三身分の人々によって王権を奪われ、それから4年も経たないうちに、ギロチンで処刑されたのです。

グルナー神父は、ファティマの要請の「タイムリミット」も1931年から数えて100年ではないかとの懸念を示しています。

ベネディクト16世: 無原罪のマリアの御心の勝利のために祈る

2010年5月13日、福者ジャシンタとフランシスコ・マルトの列福10周年に際して(そしてファティマ出現100周年を7年後に控え)、教皇ベネディクト16世はジャシンタ、フランシスコ、そしてファティマの聖母の秘密に関する説教を行いました。この説教で教皇は、ファティマの預言的使命が、完了したと考えるのは誤りであることを明らかにしています。

また、ジャシンタとフランシスコの神への燃えるような愛に関する言葉を紹介しました。そして、ルカ11章28節にある主の言葉「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」を引用し、信仰の重要性を強調しています。そして信仰は私たちを裏切らない、希望の地平を開くものであり、恐れのない人生の土台であると付け加えています。さらに、ファティマの聖母への奉献が世界中に広がり、無原罪のマリアの御心が勝利するという予言の成就が早まることを希望している、と願っています。 (EWTN, Homily, Mass in Fatima 13 May 2010)

ベネディクト16世が、無原罪のマリアの勝利という預言のすぐの成就を祈り、すでに19年が経ちますが、その明るい兆しはまだ見えていません。今日の世界の状況を考えると、第三次世界大戦の惨禍が、先に実現する可能性の方が高いようです。一方、ルカ21章9節には、「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」とあります。希望は残っているようです。

ファティマの聖母の願いどおりに行われなかった奉献

聖母が預言した戦争を回避するための二つの条件は、第一に、人々の聖母に対する冒涜と侮辱に対する贖罪としての五大第一土曜日の献身、第二に、教皇のみが行うことのできるロシアの奉献です。

聖母マリアの出現から100年以上、歴代の教皇によって、ロシアの回心と奉献のための祈りが何度も捧げられてきました。残念ながら、ロシア奉献の試みは、いずれも聖母の要求通りに実行されたことはありません。

2022年3月21日付の記事で、ライフサイト・ニュースが解説しているとおりだといえます。(以下抜粋)

世界の司教たちは、奉献に参加するよう招かれたが、命じられたわけではない。
また、すべての信者が参加できる「第一土曜日5回」の奉献が、まだ十分に普及・浸透していないとも言えるかもしれない。いずれにせよ、ファティマの預言は、ロシアの聖別が実行されなければ、多くの国が地上から消滅すると告げているのである。

無原罪のマリア様の勝利の予言が一日も早く成就し、世界が平和になることを心から祈ります。