悪魔の嫌うラテン語:祈りの宝庫ラテン語ミサ

経験豊かなエクソシスト、ゲイリー・トーマス師は「悪魔はラテン語を嫌う」と断言しています。そして、この意見は、彼自身と他の人々の経験に基づくものだと付け加えています。(こちらをご覧ください)

教皇フランシスコの自発教令、トラディチオニス・クストデス(Traditionis Custodes)の実施後、ラテン語ミサに参加することはさらに難しくなります。バチカンでは、ラテン語ミサの数を減らすことを最優先課題としているようです。しかし、実は伝統主義者の数は非常に少なく、最も多い教区ではミサ参加者の2.5%、その他の地域では平均1%程度となっています。-ナショナル・カトリック・レジスター

聖なるものはすべて悪魔の脅威ですが、伝統的なラテン語ミサの諸要素は、実に強力なものであるに違いないといえます。どうやら、伝統的ミサに教区民の1~2%でも参加することがあれば、悪魔にとっては耐え難いことであり、何としてでも消滅させたいようです。

祈りに集中できるラテン語ミサ

私はアメリカに来てからラテン語ミサに参加するようになりました。それまではノブス・オルド(1969年に公布された新しいミサ形式)に参加していました。ですから、渡米前の私は、ラテン語ミサについてほとんど何も知りませんでした。

しかし、ラテン語のミサに参加し続け、徐々に慣れてくると、ラテン語のミサの方が、ノブス・オルドのミサよりも祈りに集中できることに気づきました。

ノブス・オルドのミサは、口語的な言葉で行われ、世俗的な音楽が使われることがほとんどです。私がノブス・オルドのミサで集中できなかった理由のひとつは、そういう世俗的な音楽が原因でした。私が通っていた教会では、「民族音楽」と呼ばれる音楽でしたが、実際には、何世紀も前の民族音楽が使われているわけではありません。ポップミュージックや、下手なミュージカルで聞くような音楽です。そのような音楽は、私の祈りの妨げになることが、度々ありました。

ノブス・オルドでの祈りづらさ

これは例えば、歌詞やメロディーを聞いていて、「アレルヤは言わないはずのレント・シーズンでなぜ、レントにふさわしくないアレルヤの曲?第二バチカン以降、気にしなくなったのかしら?何でこんな明るい曲を選曲したのだろう?」と、典礼の意味にそぐわないことばかり考えてしまうことにもあります。挙句の果てに「あ、今ギターの人コードまちがえたようだ」などと思い始めると、もうおしまいです。祈りに全く、集中できなくなってしまうのです。

ミサでは、神に祈り、神と交わることに集中しなければなりません。それは、どんなに良いときでも簡単なことではありません。神秘性を感じられない、ガチャガチャとした音に気を取られてしまうのです。伝統的なミサには静けさがあります。その中で、私たちは祈りに集中することができるのです。

本来のミサであるラテン語ミサでは、祈りであるグレゴリアン聖歌が歌われていました。聖書のなかでは悪魔に対抗するために「神の武具を身につけなさい」(エペソ6:11)と述べています。「神の武具」すなわち祈りです。伝統的ミサでのグレゴリアン聖歌は、言い換えれば何世紀も続いてきた伝統的ミサの「祈り」の宝庫の一部なのです。世俗の世界で楽しむための音楽と、神への祈りのための音楽は、根本的に違うのです。

神の祭典にふさわしいラテン語ミサとグレゴリア聖歌

なぜ、このような世俗的なミサが推奨されるのでしょうか。民族音楽を使用したミサ、通称フォーク・ミサに合わせた音楽は、簡単で楽しく歌えるようなタイプのものがほとんどです。歌いやすい歌に気楽な雰囲気のミサは、誰でもすぐに気負いなく参加できるという利点がある、と典礼者改革者たちは考えたのでしょう。

しかし、そのような気楽な雰囲気は、果たしてミサにふさわしいのでしょうか。私は、神が祭壇に臨まれる、この世で最も神聖な活動であるミサは、もう少し厳粛に祝うべきものである、と考えます。もっと静寂がふさわしいのではないでしょうか?簡単な音楽が好ましいと思うなら、週7日、教会のミサの時間以外の日常生活のなかで楽しめばいいだけの話なのですから。世俗の娯楽としての音楽と、神への祈りのための音楽とは根本的に違うのです。 

聖書では、悪魔に対抗するために「神の武具を身につけなさい」(エペソ6:11)と教えています。神の武具の一部は祈りです(エペソ6:18)。伝統的なミサのテキストは、教会が何世紀も前から持っている祈りの宝庫の一部なのです。ラテン語ミサの古くからのオリジナル音楽であるグレゴリオ聖歌は、旋律の形をした祈りです。旋律はゆっくりと動き、祈りの言葉の意味をより深く感じさせてくれるのです。

Missa cum jubilo – Kyrie – YouTube 主よあわれみたまえ

グレゴリオ聖歌の不思議な体験

私は以前、ラテン語ミサのグレゴリオ聖歌に参加したことがあります。そして一度、世俗音楽とグレゴリオ聖歌の違いを実感する不思議な体験をしたことがあります。

ある土曜日、私は翌日(日曜日)に歌う予定のグレゴリオ聖歌の練習をしていました。練習をギリギリまで先延ばしにしていたのです。グレゴリオ聖歌の旋律の動きは独特で、現代音楽とはまったく違います。そのため、いつも覚えるのに苦労していました。その土曜日は、日曜日のミサに間に合わせるために、一日中、何度も何度も聖歌の練習をしていました。それでも、夜には、なんとか自分の聖歌を歌えるレベルまで持っていくことができました。夫に「一日中グレゴリオ聖歌を練習して、全身が祈りで満たされている」と冗談を言ったのを覚えています。

(やっとリラックスできる )と思いながら、私はお茶を飲んでいました。そして、ちらっと夫を見ると、インターネットで趣味のことを調べているようでした。それを見た瞬間、突然、経済的な負担を考えずにのんびりしている夫に対して、怒りがこみ上げてきたのです。

心の底から、ほぼ100%夫が悪いと思っていたので、怒りが支配して、すぐに憎しみに変わったのを覚えています。頭の中に憎しみの悪魔的なイメージが浮かび、体中の血液が毒されているような気がしました。

心のどこかで、(この異常な怒りはおかしい。危険だ )と感じていました。しかし、それでも私は(そうだろう。この怒りは正義なのだから。だから、こんなにひどくなったのだ)と、自分に言い聞かせ、心の警告を無視していました。その一方、(この怒りを神様が受け止めてくださいますように)と一瞬だけ祈ったのです。それはほんの一瞬であり、利己的な理由でした。(明日は日曜日だけど、この怒りでは、おそらく聖体拝領に値しないだろうな)と心の中で思ったのです。

すると、思いがけないことが起こったのです。突然、私の心の中に、憎しみとは正反対のやわらかい感情がわき上がってきたのです。恐らく神の愛だったのだと思います。怒りが薄れてくると、自分の頑固さ、人を信用しない、怒りしかもとうとしない自分の姿が見えてきたのです。また、困難な状況は呪いではなく、神からの贈り物であることに気づかされました。私に必要な忍耐力を強めてくれていたのです。そして、私の最大の怒りは、夫や困難な状況を経験しなければならなかったことではなく、困難な状況にある私を見ているだけの神に対するものだと気づいたのです。

その後、自分の意志と関係なく、しばらくは涙が止まりませんでした。そして強い眠気に襲われ、その後すぐに眠りました。そして翌朝は、心身ともに、とてもすっきりとし、目覚めることができました。

グレゴリオ聖歌を合唱しているとき、私たちは古い時代の祈りを生き生きと再現しています。証明はできませんが、グレゴリオ聖歌とラテン語の祈りの神秘的な力が、私の心の奥底に潜んでいた悪を浄化してくれたと信じています。

進むグレゴリオ聖歌の普及

伝統的ミサは、古くから受け継がれてきた祈りと、それを補完するグレゴリオ聖歌で構成されています。しかし、今、バチカンは、この伝統的ミサを極力排除しようとしています。本質的な問題は、バチカンが伝統的なミサを制限することで、その中にある神との交わりを育む古くからある祈りも制限していることです。一方で、少なくとも私の小教区の教会では、ラテン語ミサが廃止された今、ノブス・オルドのミサには、以前にも増してグレゴリオ聖歌が多く取り入れられるようになりました。これは大変興味深いことです。今後、どうなるのかは神のみぞ知る、ですが、ラテン語ミサの恩恵を受けることが難しくなった今、私たち一人一人が神を信じ、より一層信仰を深めていく必要性を強く感じています。

イタリア大聖堂にあるグレゴリオ聖歌本の画像: Dreamstime