復活した主イエス・キリスト: 魂の救済者 (2)

復活したキリストの墓と言われる場所は、エルサレムにある聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)とされています。この教会はどのようにして誕生したのでしょうか。

聖ヘレナが巡礼したキリストの墓

コンスタンティヌス帝(在位:306-337年)の母ヘレナがエルサレムに巡礼に行き、エルサレムの住民に、キリストの墓はどこにあるのか、と尋ねたという話があります。ヘレナに尋ねられた住民は、ローマ帝国のあるヴィーナス神殿にヘレナを案内しました。その下にイエスが葬られた場所があるという伝承があったためです。しかし、そこは異教の神殿であったため、キリスト教徒もユダヤ教徒も立ち入ることはできませんでした。なぜなら、コンスタンティヌス帝が改宗する以前、ローマ皇帝はキリスト教徒ではなく異教徒だったからです。ローマ人がキリストの墓の上に異教の神殿を建てたのは、キリスト教徒がそこで礼拝するのを防ぐためだったと思われていました。この事実を知ったコンスタンティヌス帝は、異教徒の神殿を破壊するよう命じました。そして、その後、その場所に立派な教会を建てさせました。ヘレナはこの時、主の十字架の跡も見つけたという伝説もあります。

4世紀の教会史家エウセビオスは、ヘレナが聖地を巡礼し、キリストの誕生、昇天、復活の地に教会を建てたと記しています。しかし、それ以外では、何が起こったのか明らかではありません。けれども今日に至るまで、世界中から巡礼者が訪れるこの場所は、イエスが死からよみがえった場所として信仰の対象となっています。

マグダラのマリア: 復活したイエスを最初に見た人物

Christ Appearing to Mary Magdalene, ‘Noli me tangere’
Rembrandt

マグダラのマリアは、復活したイエスを最初に見た人物です。空っぽになった墓を見、復活した主との出会いは、ヨハネによる福音書第20章1-18節に記されています。

私が参加したイースターのミサでは、司祭が、疑うトマスとマグダラのマリアの例えを用い、信仰について語りました。復活したイエスがマリアに話しかけたとき、マリアは迷うことなく「ラボニ(先生)」(ヨハネ 20:16)と答えました。一方トマスは、イエスの傷跡に手を触れるまでは信じないと明言していました。司祭は、現代人にとって、マグダラのマリアよりもトマスの反応の方が理解しやすいと述べています。

私は、マグダラのマリアの信仰にいつも感心しています。マグダラのマリアは、復活したイエスに触れもせず、イエスが肉体的に復活したことを全く疑わず、言われたとおりにすぐに他の弟子たちに復活を知らせに行ったからです。私は聖書の物語を知っていても、復活の科学的根拠を知りたくなるからです。

司祭の話す「見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ 20: 29)を聞きながら、見えるもの、言い換えれば、この世のものにしか注意を向けていない自分に、改めて気づきました。見えるものではなく見えていない神を信じられる人、そのような人になれるようにもっと祈ろう、と感じています。

復活祭洗礼

私の教会では、復活祭に七人の人が洗礼を授かりました。年齢も若い方から年配の方までと、様々でした。彼らはとても幸せそうで、明るく輝いていました。復活祭は象徴的にも、洗礼とぴったりですから、彼らの洗礼は一生の思い出になると思います。

洗礼を受けたとき、私は彼らと同じように幸せな気持ちになりました。心も体も軽くなり、新しく生まれ変わったような気がしました。それだけでなく、それまで感じていた慢性的な憂鬱感や人生に対する失望感がなくなったのです。

本当の理由は分かりませんが、洗礼を受ける以前、私の魂は霊的に死んでいたのだと思います。しかし洗礼によって、私はキリストの命によって生き返ったのだと思います。今でも、落ち込むことはありますが、以前感じていたような、心の闇が全くなくなりました。悲しくても、心が安らぐことができるのです。

奇跡について、W.ウィルマース師は『キリスト教宗教ハンドブック』(ベンジンガー、1891年)の中で次のように説明しています(p. 18)。「神が奇跡を起こすことができるなら、宇宙の主である神が奇跡を通して我々に語ろうと望むなら、神はまた状況をうまく調整し、我々の心に影響を与え、多くの場合、奇跡が起こったことを確実に知ることができる」と書かれています。洗礼を授かった後、魂が復活したかのような感覚は私にとり、そのような奇跡の経験だったのです。

Image: Christ`s tomb, in the Old City of Jerusalem, Israel